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気が向いたら思いついたことを書いてみます
鶯亭金升『明治のおもかげ』昭和二十八年初版の254ページに
本泉寺の温泉
とある。
吉野にあるのは「東泉寺の温泉」で、「本泉寺」などという所はない。現在は「湯泉地温泉」と言う。
では、なぜ、このような誤植が生まれたのか。それは、「本」のくずしと「東」のくずしが似ているからだ。
「東」のくずし字
http://codh.rois.ac.jp/char-shape/unicode/U+6771/
「本」のくずし字
http://codh.rois.ac.jp/char-shape/unicode/U+672C/
金升は原稿に「東泉寺」と書いたのだが、文選工・植字工が「本泉寺」と読んでしまった。これは無理からぬことである。
昭和二十八年九月十八日、初校が出た。十一日かけて校正を終えた。時に金升八十五歳。若干の見落としはやむを得ないだろう。金升の校正はこれ一回のみだったようだ。
私は「東」をくずして書くことはないが、「本」は面倒な時くずしてしまう。しかし、若い人はこれを読めなかった。
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『日本国語大辞典』の「きつね」の項目には、
②ハ(化粧をして男をたぶらかすというところから)芸妓、娼妓、遊女、女郎をののしっていう。
②ニ(したたかでずるく、遊客にこびへつらうというところから)「→たいこもち(太鼓持)①」の異称。
とあるが、「たぬき」の項目には、具体的な職業・人物を表す説明がない。「きつね」項目担当者と「たぬき」項目担当者の力量の差が出たということか。
宮武外骨『滑稽辞林』(安田書店。明治三十六年)に
たぬき 幇間、又はズルイ奴
とあり、
横江鉄石作『痛快節』には、
ヱライ決心東雲ならぬ、法官社会のストライキ、骨のないのは海鼠に海月、たぬき幇間タイコモチ(添田唖蝉坊『流行歌明治大正史』〈春秋社。昭和八年〉による)
とあるのだから、「狸」が「幇間・太鼓持ち」を指していたこと、明らかである。
紙の辞書ならいざ知らず、今後、電子版の大規模辞書は文字数に関係なく記述できるだろうから、その項目記述に関わった人物の氏名を明記すべきだろう。
子供の頃、母親が「豆腐の角に頭ぶつけて死んじまえ」と言うのを聞いたことがある。「味噌汁で顔洗って出直してこい」という言葉を聞いたのは五十年程前のテレビか。
こういう表現は国語辞典には掲載されないだろう。「諺」でもない。「罵倒語」か。
長野伸江・奥山益朗・真田信治といった人々が罵倒語・罵詈雑言の本を出しているが、未見。
大正九年刊『秘密辞典』に、
【おつけで顔洗へ】目を醒せといふこと。おつけは汁のことなり。
とあるので、母の言葉を思い出した。
この『秘密辞典』というのは面白い。
此の書に収めたる詞は、他の普通の辞書などには、無いものが多いと思ひます。本書に収むる処は、隠語、略辞、謎、俚諺、地口、洒落、俗説、符牒、記号、外来語、新流行語、特殊階級語、方言などです。
と標榜している。編者・自笑軒主人とは何者かと思ったらネットに記事があった。
自笑軒と号した田端の杉本僖平
https://jyunku.hatenablog.com/entry/20110723/p1
しかし、田端の天然自笑軒は宮崎直次郎の店で、杉本僖平とは謎の人物とのこと。
本のタイトルにゴチック体が使われるようになったのは、いつ頃からだろうか。
ゴチック体というからには、西洋から入ってきたものとばかり思っていたが、ウィキペディアによると、
日本などの東アジア圏のフォントで使われる書体。
西洋において「Gothic」と言うと単に「ローマン書体以外の文字」と言う意味しかなく、ブラックレターなども含まれるかなり広い概念であるため、西洋では通用しない言葉である。
とあるので驚いた。ウィキも起源を明確にしていないが、大正8(1919)年1月1日付の朝日新聞記事にゴチック体が見られるという。
それなら、明治時代の文献にゴチック体を見付けたとしたら、大発見ではないか。
今日は、明治十三年刊の『花柳事情』(酔多道士)の題簽文字がゴチック体であるのに驚いたところだ。
https://base1.nijl.ac.jp/~kindai/img/RTJB/RTJB-00237/RTJB-00237-01.jpg
和紙・和本仕立てでゴチックを使っているのだから、これが最も古い例か。
寡聞にして江戸時代の文献にゴチック体が使われていたというのを知らない。
『花柳事情』の表紙が後補という可能性もないではないが、国文学研究資料館・早稲田大学蔵本、及び古書店で出ている複数の『花柳事情』の全ての表紙(題簽)がゴチック体である。初版時にゴチックで書かれたものだろう。
中国では、商店のことを「行」と言う。日本もこれを真似て「銀行」を作った。内田洋行という会社は、中国で創立されたとのこと。
中国語で、会社のことを「公司」と言う。日本で「……公司」という会社があるのかどうか、知らない。
2020年から小学校で英語教育が必修になるという。
http://www.peppy-kids.com/course/english2020.php
矢野龍渓が小学校での英語教育を提唱したのが明治四十四年(『龍渓随筆』)だから、109年後に実現したことになる。龍渓は、その余りの遅さに苦虫をかみつぶしているのではないか。
私は小学校五年か六年の夏休みに、近くの簿記学校に行くように親から言われた。小学生向けの夏季講座のようなものだったが、小学校の教科書とは関係なく、英語・国語・算数を教わった記憶がある。英語は先生が黒板に書き、「ノートはとらなくていいですよ」と、文字を書くことはなく、会話の練習のようなものだった。
矢野龍渓『閑話集』に、
嘗て予の家に出入せし直実無文の人あり、書物の頁を「ヘージ」と称へ、決して「ページ」と言はず、其の故を問へば、「ページ」とは口に調好(てうし)を附けたる下賤の言葉にて本来は「ヘージ」なるべし、然るを皆口癖に「ペー」と圏点を加るものと思ひ居れりと答へたり
とあるので笑った。中学校一年の時の技術家庭の先生が、「ページ」と言わず、「ペーシ」と言っていた。彼の理由はこの直実無文の人とは違うだろうが、真意はわからない。
ネット記事に、
こういったフックになるお店をしっかりラインナップできるかというのは勝負の分かれ目になるといってもいい。
https://toyokeizai.net/articles/-/284033?page=3
とあった。
ニュアンスはわかるが、「フック」の意味がわからない。『日本国語大辞典』を見ても、それらしき説明はない。ウィキを見ると、
つかみ - 芸能で、客を引きつけるためのしかけ。
とあった。これだ。『新英和大辞典』を見ると、
《米》〈人やものを〉引きつけるもの、誘惑するもの;わな。
とある。
ネットの記事に
晴海から見晴るかす東京都心の眺めは絶景だろうが、
とあった。
https://biz-journal.jp/2019/06/post_28169_3.html
「ハルミ」「ミハル」と洒落ている。筆者は牧野知弘。不動産事業プロデューサー。
この人は「見霽かす」という古い言葉をどうして知っているのか。学識があるから、といえばそれまでだが、私の小学校の校歌が「みはるかす」で始まるものだ。ひょっとして同じ小学校の卒業か、とも思うが、大学以前の学歴はネットではわからない。
中国語で「先生」は、日本語の「さん」。では、日本語の先生は中国語で何というのかというと、「老師」。
若い先生でも「老師」とはこれ如何に。『大字典』で「老」を見ると、「経験を積む」「ものなれた」という意味がある。これか。「老熟」「老練」の「老」か。
田圃に水が張られた。蛙が鳴き出した。もうすぐ田植えだ。
「士業」という仕事がある。ウィキによると、下記の54種。「運転士」は入っていない。
医師・歯科医師・獣医師・看護師・薬剤師・臨床検査技師・診療放射線技師・鍼灸師・あん摩マッサージ指圧師・柔道整復師は「士業」に入っているが、教師などをひっくるめて「師業」とは言わないようだ。
医師・教師は「先生」と呼ばれるが、議員も「先生」と呼ばれる。しかし、中国語で「先生」というと、日本語では「~さん」という感じで、軽い。「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」「先生と言われるほどの馬鹿でなし」となると、中国語の「先生」以下だ。
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シャボン玉はいつ頃から作られていたのだろうか。商売になったのは江戸時代だ。ウィキには、
1677年(延宝5年)に始めて、シャボン玉屋が現れた(『広辞苑』、『ブリタニカ国際大百科事典』)とされる。
とある。
伊藤晴雨『江戸と東京風俗野史』巻の四には、幕末から明治初年の「玉や」の絵が三種類載っている。買った子は、コップぐらいのものとストローのようなものを持っている。プラスチックはないので、竹の筒を切ったものか。ストローは文字通り麦わらだろう。
シャボン玉では苦い思い出がある。小学校五年ぐらいの時か、通りの八百屋で煎餅とシャボン玉液を買い、家で何を思ったか、液体を飲んだ。苦いのに驚いて煎餅を食べた。今思えば、指をノドに突っ込んで吐き出すとか、うがいするとかすればよかったと思う。その後特に後遺症らしきものはなかったが、十五年ほど経った頃、激しい胃痛(キリキリともむような)に襲われた。それもしばらくしておさまった。五十過ぎて内視鏡検査を何度か受けたが、「軽い炎症」がある程度とのことだった。胃薬は何十年も飲んでいない。
ネットを見ると、シャボン玉を迷惑がる人がいるようだ。車や洗濯物に付くとか、犬がアトピーとか。だんだん難しい世の中になってくる。
矢野龍渓『出鱈目乃記』は、和漢洋の広い知識に裏打ちされた、面白い本だ。この中に「誤字」と題する一文がある。
俗曲の中には佳き歌は極めて少くなし、又た偶ま之れありても、訳も知らぬ児女の為に、唄ひくづされて、意味を損じ居るもの多し、嘗て宴席にて
  花蝶々か、蝶々花か、来てはちらちらまよはせる
の歌を聞く、如何にも意味を解しかねたり、後ち不斗心付きたるに、こは佳き歌なり、蓋し作者の意は、元と
  花蝶々か、蝶々花歟、来てはちらちら迷はせる
とこそせしならむ、然るを「花が蝶々か蝶々が花か」と「か」を「が」と濁らされし為め、当初の意味は全く没却されたるのみ。
「誤字」というよりは「誤伝」「訛伝」だろう。一字違いで意味が変わってしまう、という例は多い。
泉鏡花『五月より』の「十一月」に、
小橋の稚子(うなゐ)等の唄ふを聞け。(おほわた)来い、来い、まゝ食はしよ。
とある。
(おほわた)というのがわからない。手許の辞書を見ても、ネットを見てもわからない。
藤沢衛彦『明治風俗史』(三笠書房。昭和十七年)に、明治初期のわらべ唄が紹介されている。
おほわた来い来い
飯くはしよ
飯がいやなら肴(とゝ)くはしよ。
太田才次郎『日本児童遊戯集』(平凡社東洋文庫。初刊は明治三十四年)に、「東京市中の児童が、種々の事物に就きて唱うる句は極めて多けれども、その中に就きて最も多く唱うるもののみを左に列挙せん」として「雑戯唱句」を挙げているが、その中に、
十月頃、「おお綿」と称する小虫空中に飛ぶを見、招いて曰く
  おおわた来い来いまま食わしょ、まァまがいやならととくわしょ。
とある。
どうやら、小さい虫のようだ。
『岡本綺堂随筆集』(岩波文庫)には、
沼波瓊音氏の『乳のぬくみ』を読むと、その中にオボーという虫に就て、作老が幼い頃の思出が書いてあった。蓮の実を売る地蔵盆の頃になると、白い綿のような物の着いている小さい羽虫が町を飛ぶのが怖ろしく淋しいものであった。これを捕える子供らが「オボー三尺下ンがれよ」という、極めて幽暗な唄を歌ったと記してあった。
作者もこのオボーの本名を知らないといっている。私も無論知っていない。しかしこの記事を読んでいる中に、私も何だか悲しくなった。私もこれに能く似た思い出がある。それが測らずもこの記事に誘い出されて、幼い昔がそぞろに懐しくなった。
名古屋の秋風に飛んだ小さい羽虫と殆ど同じような白い虫が東京にもある。瓊音氏も東京で見たと書いてあった。それと同じものであるかどうかは知らないが、私の知っている小さい虫は俗に「大綿」と呼んでいる。その羽虫は裳に白い綿のようなものを着けているので、綿という名を冠せられたものであろう。江戸時代からそう呼ばれているらしい。秋も老いて寧ろ冬に近い頃から飛んで来る虫で、十一月から十二月頃に最も多い。赤とんぼうの影が全く尽きると、入れ替って大綿が飛ぶ。子供らは男も女も声を張上げて「大綿来い来い、飯(まま)食わしょ」と唄った。
オボーと同じように、これも夕方に多く飛んで来た。殊に陰った日に多かった。時雨を催した冬の日の夕暮に、白い裳を重そうに垂れた小さい虫は、細かい雪のようにふわふわと迷って来る。飛ぶというよりも浮んでいるという方が適当かも知れない。彼は何処から何処へ行くともなしに空中に浮んでいる。子供らがこれを追い捕えるのに、男も女も長い袂をあげて打つのが習であった。その頃は男の児も筒袖は極めて少なかった。筒袖を着る者は裏店の子だと卑まれたので、大抵の男の児は八つ口の明いた長い袂を有っていた。私も長い挟をあげて白い虫を追った。私の八つ口には赤い切が付いていた。
それでも男の袂は女よりも短かった。大綿を追う場合にはいつも女の児に勝利を占められた。さりとて棒や箒を持出す者もなかった。棒や箒を揮うには、相手があまりに小さく、あまりに弱々しいためであったろう。
横町では鮒売の声が聞える。大通りでは大綿来い来いの唄が聞える。冬の日は暗く寂しく暮れてゆく。自分が一所に追っている時はさのみにも思わないが、遠く離れて聞いていると、寒い寂しいような感じが幼い心にも泌み渡った。日が暮れかかって大抵の子供はもう皆んな家へ帰ってしまったのに、子守をしている女の子一人はまだ往来にさまよって「大綿来い来い」と寒むそうに唄っているなどは、いかにも心細いような悲しいような気分を誘い出すものであった。
その大綿も次第に絶えた。赤とんぼうも昔に比べると非常に減ったが、大綿は殆ど見えなくなったといってもよい。二、三年前に招魂社の裏通りで一度見たことがあったが、そこらにいる子供たちは別に追おうともしていなかった。外套の袖で軽く払うと、白い虫は消えるように地に落ちた。私は子供の時の癖が失せなかったのである。
この文章の初出は大正四年。写真や絵は残っていないのだろうか、とネットを見ると、何とあった!
雪虫(綿虫・オオワタ)の写真
https://plaza.rakuten.co.jp/baneisupporter/diary/201010210000/
北海道の雪虫は「オオワタ」とも言うらしい。これだ。温暖化のせいで、東京では見られなくなったのだろう。
次のページの写真はきれいだ。
冬の訪れを告げる雪の妖精「雪虫」ゆきむし 不思議な生態・儚い命・大量発生https://msmeraldo.com/yukimushi/
ウィキの「雪虫」の項には、関連項目として「トドノネオオワタムシ」が挙げられている。
明治四十五年間に温暖化が進んだことがうかがえる。戦後昭和のは、更に激しいものだった。東京でオオワタが見られなくなって約百年。その間、どんな虫が消えたか。今後百年でどんな虫が消えてゆくのだろうか。
この年になっても初めて見る苗字がある。今日は、「倭文(しとり)」という姓を知った。
幸い、「倭文の由来」というページがあった。
http://www.minamiawaji.ed.jp/shitoori_jhs/fuudoki/01rekishi/01yurai/index.htm
「シズリ」「シドリ」「シズオリ」「シトオリ」「シトリ」と読むそうだ。
速記者による「誤読一覧」があった。
http://www.sokki.or.jp/wp-content/uploads/ng_hatsugen.pdf
「進捗」を「しんしょう」と読むのが「現在では認められている」というのに驚いた。誤読も増えれば正読となる。
「早急」を「そうきゅう」と言う人も複数いたが、これも「現在ではOK」とのこと。しかし「そっきゅう」はOKにならないだろう。
「矛盾」を「ホコトン」と読んだのは「某議員」だというが、「未曽有」「踏襲」を誤読した麻生太郎も、いつかは「某議員」となって誤読の歴史から名前が消えるのだろうか。
札幌市議が土下座する映像を見た。靴を脱いでいる。これが本来の姿だろう。履き物を履いたまま平伏したのでは、失礼だ。江戸時代の庶民は、大名行列の前で、履き物を脱いだのだろうか。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190527-00000011-hbcv-hok
土下座に際して靴を脱いはエライ(?)が、額を床にすりつけていない。その他の言動も全くダメだ。
『上野繁昌史』(昭和三十八年)は、『寛永寺略記』を引いて、天海の長寿法を
気は長くつとめは堅く色うすく食ほそくして心ひろかれ【甲】
長命は粗食正直日湯陀羅尼おりおりご下風あそばさるべし【乙】
と紹介している。
しかし、『寛永寺略記』という本は、国会図書館にも大学図書館にもない。寛永寺に行かないとみられないのだろうか。それにしては類似の歌があちこちで引用されている。他にも何か出典がありそうだ。
【甲】の歌はネットにもあるが、典拠が明示されていない。
【乙】の歌もネットにあるが、微妙に表現が異なる。五七五七七になっていないものもある。当然何に拠ったのかは示されていない。
迷惑メールフィルターにかかったものを見ると、世の中には暇な奴がいるものだと感心してしまう。
Subject: i don't know where i am
Subject: can you help me?
Subject: I really need help
Subject: Oh, where have you been all my life!
Subject: let's do it tomorrow
Subject: Do you know how to turn a girl on?
これらは発信人名義は異なっているが、同一人物(同一組織)のものではなかろうか。私は、英語がわからないので、こんなものにはひっかからない。タイトルの意味さえわからないものがある。
Yahoo! や BIGLOBE や、某銀行など、有名な、そして現在私の利用している所を騙って出してくるものもある。特徴は、日本語がなっていないことだ。一読して日本人の書いたものではないことがわかる。
の花が咲いた。控えめな薄紫はけなげだ。だが、今年はハナミズキもオウチも、どこか精彩に欠けるような気がする。天変地異の予兆でなければよいが。
樗は歴史的仮名遣いでは【あふち】だ。唱歌「夏は来ぬ」の四番を、あるCDで【オウチ】でなく、【アフチ】と発音していたのには笑った。
大阪のド真ん中に「ここに砂場ありき」という石碑が建っているのを知った。表面には大きく「ここに砂場ありき」とあり、裏面には説明文が彫ってある。ネットには紹介記事が多々あるが、この裏面の文を全部紹介しているものはないようなので、ここに写しておく。
  本邦麺類店発祥の地
   大阪築城史蹟 新町砂場
 天正十一年(一五八三)九月、豊太閤秀吉公大阪築城を開始、浪速の町に数多、膨大を極めて資材蓄積場設けらる。ここ新町には砂の類置かれ、通称を「砂場」と呼びて、人夫・工事関係者日夜雲集す。人集まる所食を要す。早くも翌天正十二年、古文書「二千年袖鑒」に、麺類店「いづみや」「津の国屋」など開業とある。即ちこの地、大阪築城史蹟にして、また、本邦麺類店発祥の地なり。
                                                  坂田孝造 識
坂田孝造とは何者か、と調べると、大阪の新聞記者でそば研究家とのこと。私費で建てたのだろうか。詳しいことはわからない。
ここから東北へ数百メートル、御堂筋のド真ん中には「此附近芭蕉翁終焉ノ地」の石碑がある。余りにも淋しいと思ったら、南御堂に「史蹟 芭蕉翁句碑」というのがあって「旅に病んでゆめは枯野をかけめぐる」の碑その他があるようだ。
人が死ぬ度にお墓を作っていたら、地球は墓場だらけになってしまうと思うのだが、そうはなっていない。石碑・銅像なども、過去に建てられたものの何割が残っているのだろうか。江戸にあったお稲荷さんはほとんど取り壊された。永遠に残るものなど、ない。
ネット記事に次の記述があった。
僕は、インターンシップに参加した学生さんによく言っていることがあります。それは、「『アイデアを考えなさい』という表現に惑わされないように」ということ。なぜならば、“アイデアを考える”ということ自体が、じつは間違っているからです。本来アイデアというのは“思い付き”でしかなく、考えるものではないのです。
思い付くというのは、いろんな情報が自分の中に入り込んで、たまたま何かと何かがパッとくっついた時に新しいものが生まれる、ということであって、順序立てて考えた結果として思い付くことは、あまりありません。
科学の世界ですら、何らかの偶然がないと思い切った発想や発見にはつながりませんよね。つまり、思い付くというのは、努力しても難しいのが現実かなと思っています。
ただ、目的に対してどういう解決方法があるのかを“考え続ける”ことは無駄ではありません。日頃から考え続けることは誰にでもできるし、考え続けることで気付きを得ることはできると思うのです。
何となく心の中に問題意識があると、ある時突然、「あ、そういえば」とハッと“気付く”ことができます。思い付くというのは、生み出すというより気付くに近いことなんです。思い付くためにできることを強いて挙げるなら、日常の中でいろんな情報を絶えずインプットしながら、視野を広げておくことです。
アイデアは、考え続けた先で気付くもの
https://dentsu-ho.com/articles/6620
同感だ。ただ、私は「考え続ける」ことはせず、思いつきと偶然に任せている。
樋口一葉『たけくらべ』に、
くちなし染めの麻だすき成るほど太きを好みて、十四五なるより以下なるは、達磨、木兎、犬はり子、さまさまの手遊びを数多きほど見得にして、七つ九つ十一着くるもあり、大鈴小鈴背中にがらつかせて、駈け出す足袋はだしの勇ましく可笑しく
とある。これは明治初期祭礼での子供のいでたちである。襷に達磨・木菟・犬張子をくくりつける、という風俗は、戦後生まれの者には見当もつかない。しかし、浮世絵にはあるようで、『浮世絵のなかの江戸玩具』という本があった。注文したばかりで到着待ちだが、達磨と木菟の組み合わせについては、内田魯庵『思い出す人々』、宮武外骨『奇態流行史』などに記述がある。
因みに、『全集樋口一葉』第二巻(小学館。昭和五十四年)では、この達磨・木兎について注釈はつけられていない。これよりも詳しい注釈書はあるのだろうか。国文学論文目録データベースで「たけくらべ」を見ると、336の論文が登録されている。この中にはあるのだろうか。
豊田章男が「現状では終身雇用を続けていくことは難しい」と言ったそうだ。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/news_seminar/syukatsu/syukatsu10-84/
終身雇用を文字通り解釈すれば、「死ぬまで」雇い続ける、ということだ。そんな会社はありえない。
「定年雇用」を「終身雇用」と言い換える根性が理解できない。
豊田章男も「現状では定年雇用を続けていくことは難しい」と言うべきだ。
政府が70歳まで働けるように、と言っているのに、豊田は、「それはできない。65歳まで、いや60歳までにしてくれ」ということなのか。それとも「定年制はやめる。新卒入社は35年以内、途中入社は20年以内にやめてもらう」ということなのか。あるいは、「百円ショップ業界・ファーストフード業界のように、トヨタも八割以上を非正規とする」ということなのか。いずれにせよ、方針を明確にできないのでは経営者失格だ。
因みに、大日本帝国憲法下では、判事や陸海軍将校などについて、死ぬまでその身分を失わない「終身官」という制度があった。天皇も昔は死ぬまでやらされたが、今回変った。しかし、「生きている限り働いてください」などという株式会社はない。
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