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気が向いたら思いついたことを書いてみます
「キビスカンカン」という歌を聞いたことがある。
石田龍蔵『明治変態風俗史』(昭和八年)には、
金来ぶし 摺鉢を伏せて眺めりや三国一の、味噌をするがの富士の山、キビスカンカン、イカイドンス、サンギヨクレンスノスクネツポ、スチヤンマンマンカンカマイカイノ、オツペラボウノキンライライ、アホラシイジヤオマヘンカ。(明治二十一年頃の流行)
とある。
『日本音曲全集』第七巻「俗謡全集」(表紙は「俗曲全集」。昭和二年)には、
金来節は明治二十一二年頃落語家の先代芝楽が高座で唄ひ出して、花柳界に移り、世人の迎合するところになつて、
とある。

明治二十五年四月十七日の『濃尾日報』には、
キビスカンカン、イカイドンス、キンギヨクレンスノ、ソクレツポー、スツチヤンマンマン、カンマンカーイノ、オツペラポーノ、キンライライ、アホラシイヤオマヘンカ。
とある。
倉田喜弘『近代はやり歌集』(岩波文庫)は、明治二十五年の歌として、
きんらい節
浦里がア 忍び泣すりや緑も供に 貰ひ泣をする明烏アす
キビス ガンガン イカイドンス キンギヨクレンスノ スクレンボウ スチヤマンマン カンマンカイノ ヲビラボウノ キンライライ あほらしいじやをまへんか かみさん きてゝやをまへんか 毎ばんきてゝやをまへんか をふきーにはゞかりさん
とある。
倉田は『濃尾日報』に拠って「きんらい節」を明治二十五年としたのだろうが、果たして、この歌の流行は明治二十一年か、二十二年か、二十五年か。
明治二十四年十月十二日発行『花たら誌』第四十四号四ページには、
上方流行唄 岡山なる艶文連員呉山亭楚水氏よりの報に此頃上方辺にては左の唄大ひに流行する由
キビス、カンカン、イガイ、ドンドン、キンギヨクレンスノ、ソクレンボ、スツチヤン、マンマン、カンマンカイノ、オツペラボウノ、キンライライ
とある。
したがって、「きんらい節(金来節・欣来節)」は明治二十五年ではなく、既に明治二十四年に流行していたことがわかる。今の所、これ以上さかのぼれる資料は見当たらない。「通説では、明治二十一二年頃から流行」とでもしておく他ないか。
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「おやまかちゃんりん」「親馬鹿ちゃんりん」という言葉が明治からはやった。私が子供の頃は「親馬鹿ちゃんりん」という言葉を聞いたことがあるが、最近では「ちゃんりん」すら使わない。
『日本国語大辞典』の「ちゃんりん」の項目には、
承知の意を表わすとき、相手をばかにしていうことば。
としかないが、
藤沢衛彦『流行歌百年史』には、
おやまかちやんりんは、楊弓店、射的場の白首や、湯屋の二階の湯女などの通語に胚胎して
とあるから、これらの女が「はいはい(わかったよ)」というようなニュアンスで使ったものではなかろうか。
江戸時代から手軽な芸者を「みずてん」といい、明治の一時期には「オーライ芸者」と言った。
ある文献には、
静岡双街のチヤンリン
とあって、娼妓のことをチャンリンと言っている。「みずてん」「オーライ」と同義ではなかろうか。
石橋中和『近世奇譚』(明治二十五年)には、「オヤマカチヤンリンの根源」として、
陸軍大将勲一等従二位大山巌公西南の役に臨みし砌り兵士と戯れ又は道化を為しつ往々険路に競争を試みられし事あり戦ひ決しての後ち進軍の道筋を検すれば公が戯むれたる所は必らず険路なりけり必らず敵の潜伏せし所なりけり其事屢々重なりければ兵士、公の意を察し其頓智に服す然れども皆な曰く大山若し道化なば軍必らず危しとて相誡めて「オヤマカチヤンリン」と歌ふ意は「大山が道化」の義なりとか
とある。
西沢爽『雑学明治珍聞録』(文春文庫)は、これを引いて、
これが「大山がチャリン」で、それが「オヤマカ・チャンリン」になったと『近世奇譚』にある。「チャンリン」は、江戸語の「茶利」(道化、浄瑠璃語)からきたものだろう。
としているが、牽強付会も甚だしい。『近世奇譚』には「大山がチャリン」などとは書いてないし、ましてや、「大山がチャリン」が「オヤマカ・チャンリン」になったなどとは書いてない。たまたま「オヤマカチャンリン」の歌がはやっていたか、或いは『近世奇譚』の付会かもしれない。
石橋中和・西沢爽よりは、藤沢衛彦の説を信じたい。
『礼記』に、
人生れて十年を幼と曰ふ、学ぶ。二十を弱と曰ふ、冠す。三十を壮と曰ふ、室有り。四十を強と曰ふ、仕ふ。五十を艾と曰ふ、官政に服す。六十を耆と曰ふ、指使す。七十を老と曰ふ、伝ふ。八十九十を耄と曰ふ。〈中略〉百年を期と曰ふ、頥ふ。
とある。
二千年も前の記述だから、現代には当てはまらないだろうが、八十と九十が一緒になっているのが不審。
ある本に、
性質稍やタヂレの憾なきに非ず
とあった。
「たじれる」というのも初めて見る言葉だ。『日本国語大辞典』には、
思考力が減退するなどして変調を来たす。また、年をとって子どものように無邪気になったり忘れっぽくなったりする。ぼける。もうろくする。
とある。
「ぼけ」「もうろく」という言葉は、人格否定のように聞えるのか、最近ではなるべく使わないようになっている。「痴呆症」は平成十六年から「認知症」と改められた。和語の「ぼけ」が使えないのなら、代わりに「たじれ」と言ったらどうか。
つい20年前までGoogleもWikipediaも無かったてやばくない?
https://anond.hatelabo.jp/20190612075555
というページがあった。
Googleの前は、Gooで検索していた覚えがある。Windows95の前は、検索すらできなかった。図書館内を歩き回る体力が必要だった。今は体を動かさなくても、たいした記憶力がなくても、かなりのことを調べられる。
横腹に「自然発酵堆肥」と書いた車が走っていた。堆肥は自然発酵させるものとばかり思っていたが、そうではないらしい。強制的に急速発酵させるものがあるようだ。詳しくはわからない。
ある本に、「上手は枯れるが下手は凝(かたま)るからして追々話がこずみ」とあった。「こずむ」という言葉は初めて見た。前置きがあるから意味は想像できるが、老噺家の話がくどくなって、「枯れる」のとは反対に重い感じになってしまうことを指すのだろう。
ネットを見ると、長野・静岡方言で「こずむ」があるのに驚いた。沈殿する、凝固する、という意味らしい。
https://blogs.yahoo.co.jp/kagaku43/19755565.html
『明治大阪物売図彙』を出した時、「大阪朝日新聞」明治三十二年十月七日に
辻洋食 の図があり、屋台には
西洋料理 と記してある。提灯には何と書いてあるのか読めない。
類書を探してみたが、このような商売は見あたらなかったので、
諸書に「辻洋食」見当たらず。大阪独特の商売であろうか。
としておいた。
しかし、後に、「東京朝日新聞」明治四十一年二月二十四日に「屋台店廻り」という記事を見付け、「西洋一品料理の屋台店」があることを紹介した。
今日は、『団々珍聞』第一千二百二十号(明治三十二年六月十七日)十二頁に、
  ●むだ口投書 (其二)
▲西洋料理の屋台店を出してもらひたい(立食生)
とあるのを見付けた。
この人は、大阪にあるのを知って「東京でも」と言ったのか、あるいは知らずに言ったのか。
江戸時代、「でいでい屋」という商売があった。雪駄直しである。『守貞謾稿』には、「でいでいは手入れ手入れの訛言なりと云へり」とある。『明治商売往来』の仲田定之助は、明治時代には、でいでい屋に下駄も直して貰ったと書いている。雪駄を履く人が減ったので、下駄も扱うようになったのか、それとも江戸時代から下駄もやっていたのか。仲田によると、大正時代には「でいでい」とは言わず、鼓を打つようになり、「でいでい屋」ではなく、「歯入れ屋」と呼んだという。本当の話か作り話かわからないが、『別世界』第五号には、次の話が載っている。
去る華族家の姫君一日築地のほとりに立出で戸外を眺めてゐる折しも一人のデーイデーイ屋の通るを見て姫君おつきの女中に向ひ「デーイデーイといふは胸が悪くツて苦しんでゐるのだらうから早く薬りでも遣たがよからう」
珈琲・紅茶を飲む人が増え、日本茶を飲む人が減ったせいか、「茶」にまつわる言い回しで、死語となっているものが多い。
茶化す
茶人(物好き)

茶にする
茶になる
茶の十徳
茶の間
茶飲み話
茶話
茶腹も一時

茶番
茶瓶頭

茶ぶるまい
茶坊主
茶盆
茶枕
茶店
茶話
茶話会
茶碗と茶碗
茶を言う
茶を入れる
茶を濁す
茶を挽く
禿茶瓶
臍が茶をわかす
「お茶を入れる」「お茶を濁す」ぐらいは使わないでもないが、他の言い回しは現在一般には使われないだろう。
「おちゃっぴい」は、現代語では「ヤンキー」か。ちょっと違う感じもする。
天保四年の『当世千代保くれ』に、
ちよつと時候の御見舞なんどに、羽二重縮緬五匹十匹、菓子折袴地なんの彼のとて、名目ばかりで生で握らせ、百や二百の小判はちやあぷう
とある。
『日本国語大辞典』には、
【ちゃあふう】無駄になくしてしまうこと。台なし。また、そのさま。めちゃめちゃ。
とある。
「ちゃあふう」とは、今は使わない言葉だ。今なら「パーにして」とでも言う他ないか。
『団々珍聞』第九百廿七号に、「ば歌『ひめがや』」が載っている。
娼(ひめ)がやへ。千夜に八千夜に。かよふ身の。のろけとなりて。白痴(こけ)のむすまで
こんなのを掲載して、よく発禁にならなかったものだ。
ニュースの見出しに「新潟下越」とあるのに驚いた。
上越・中越は聞いたことがあるが、「下越」というのは初耳だ。
ネットを見ると、新潟県は上中下に三分されるという。
http://youngecon.com/niigata-area-naming/
新潟市は中越でもよさそうだが、何故下越なのだろう。
倉田喜弘編『明治の演芸』によると、明治二十二年十二月二十九日の『東雲新聞』に、
生れは伊勢国鈴鹿郡大岐須村なりとか、伊勢川扇女と云へるは、身の丈け八尺余、ゆき二尺五寸、手のひら一尺一分、足の裏一尺五寸、目方は三十八貫あり、それで年齢は十六歳二箇月なりとは、驚く可き大女ならずや。当る一月一日より千日前の木村和席に於て、此大女そが甚九、手踊などを興行する由なるが、是れ抑も造化の戯れか、世には様々の畸形も有れば有る者なり。
とある。八尺とは2.4メートル、三十八貫とは142.5キロである。
『日本国語大辞典』も立派ではあるが、新聞データベースも充実したことだし、デジタルデータを使って、紙数・文字数にこだわらない、デジタル版の大辞書を作ってもらいたい。
国語辞典で「あたる」を引くと、動詞の説明しか載っていない。
昔の寄席のビラなどでは、「来たる」の意味で、
当ル一月上旬
と連体詞として使っていた。ゲン担ぎである。
これは、俗語・業界用語として、無視されるのだろうか。国語辞典百数十年の歴史の中で、一書ぐらいは連体詞「当る」を説明したものがあってもよいと思うのだが。
子供の頃、「糠味噌が腐る」という言葉を聞いた。
大正九年『秘密辞典』に、
【糠味噌が腐る】歌ふ声などの悪しき形容。
とあるが、広く「音痴」をも指すのではないか。
糠味噌のある家が減ったせいか、死語のようだ。
「新世帯」の読みはいろいろある。
あらじょたい
あらぜたい
しんしょたい
しんじょたい
しんぜたい
徳田秋声の小説は「あらじょたい」。
「程」を「程度」とだけ解釈してはいけない。
これほどのものを書く人なれば、さぞかし程のよい人なるべし、顔見たや、顔見たやと、あこがれてゐる
この「程のよい人」の「程」は「程度」ではない。
程のよいのにツイほだされて
この「程」も同様。「ほだされて」という言葉も最近聞かない。
金や富貴は誠にやならぬ程のよいのに気が迷ふ
金がなくても「程」がよければいいらしい。
年が違おが女房があろが程のよい人誰も好く
年の差があっても、既婚者でもかまわないという。
とかく浮世は侭にはならぬ程のよい人実がない
この「程」はいい意味ではない。「程度」でない「程」にもいろいろあるようだ。
「スズノスケ」という名前の人がいるのには驚いた。「スズノスケ」といえば、「赤胴鈴之助」だ。小学校低学年の時、ラジオドラマを聞いていた。『少年画報』は買ってもらった記憶がない。「少年画報社」がいまだに存在していることにも驚いた。
『筑摩書房の三十年』を読んだ。
社史というよりは古田晁の伝記といった感じだ。
社史編纂室ではなく和田芳恵の手になったのがよかった。
こういうものは二度と現れないだろう。
ここに描かれた人々は皆あの世に行っている。和田が用いた資料を、何の遠慮もなく使ったら、もっと面白い本ができるのだが。
「袖を絞る」「袂を絞る」と言っても、今の若い人にはピンと来ないだろう。
「枕が浮く」ほどではないにしても誇大表現には違いない。
更に「袖」「袂」を意識することもないだろう。
今「絞る」といえば、タオルぐらいか。ない知恵はいくら絞っても出てこない。
近松門左衛門『雪女五枚羽子板』(宝永二年)には、
一ト二ウ三イ四ウ五ツ七八ア九
とあり、「六」がない。
行智編『童謡集』(文政三年成)には、
一子にふたご、三わたしよめご、だんのふやくし、あすこのやじや十う、こゝのやじや十う
とあって、「六」がない。
万亭応賀『幼稚遊昔雛形』(天保十五年)には、
ひとごにふたご、みわたしよめご、いつよにむさし、なアンのやくし、こゝのやぢやとをよ。
とあり、1から10まで揃っている。
「ひとごにふたご」という文句を聞いたことがある。時代劇か何かだ。
ネットで検索できた「羽根つき唄」は、
ひとごふたごみわたすよめごいつきてみてもななごのおびをやのじにしめてここのまちとおる
となっていて、「ひとごに」の「に」が抜けているし、「6」に相当する言葉も抜けているのではないか。
次の文句は1から6までしかない。
ひとごにふたご身はよめごいつかむかしのささめごと
ひとごにふたご身はよをしのぶいつかむかしのさゝめごと
次の竹久夢二『あやとりかけとり』の文句は、「6」が欠けている。
ひとごに、ふたご、みわたしや嫁御。斜子の帯を矢車にしめてこゝのよで十よ。
1から10まで揃った文句はないものだろうか。
現在では皇族以外の人々に身分制度というものはない。しかし、大日本帝国憲法下では、「華族」制度があった。いつの世も金次第。江戸時代には、旗本・与力・同心などの身分が金で買えた。明治大正にも爵位は金で買えたようだ。
『驥尾団子』第二百三号(明治十五年)掲載の上田花月狂歌の詞書に、
蓮の花は其様気高し云ば能好(のうずき)なる馬華族の紅葉館に舞たらんが如し
とある。
紅葉館とは、今の東京タワーの所にあった会員制の高級料亭。政治家・実業家・文人・華族・軍人の社交場として使われた。
『滑稽新聞』第十号(明治三十四年)には架空の判決文が掲載されているが、その被告は、
住所不定馬華族
 風俗新聞編輯兼発行人
       小山難太郎
となっている。
検事が小野村夫、判事が富田源助・荒間伊弥太・南野琴造、書記が忠海浪人となっていることからも、実際のものではないことが明らか。
共に「華族」あるいは「華族制度」を「馬鹿」にしているようだ。
書物の誤記誤字を訂正するのに、いろいろな方法がある。巻末に一覧を掲げるもの、紙片を挟むもの、紙片を貼るもの等。普通は「正誤表」「訂正表」などと書いてあるが、川柳子は流石凝っている。今井卯木『川柳江戸砂子』(明治四十五年)巻末には、
焉馬魯魚
とあった。
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