忍者ブログ
気が向いたら思いついたことを書いてみます
明治の昔、横浜毎日新聞は、書く記事がなかったので四ペーシ目を白紙とし、「好きなことを書いてください」としたという。
今回入手した本は、序2ページ、目次3ページ、本文173ページだが、その後32枚64ページ分が方眼目のついた白紙だ。メモ用とも記録用とも、何の記述もない。約四分の一が白紙というのは珍しいのではないか。
昭和8年5月15日発行、木下桂風編『茶人必携』(鈴木書店)。アテにしていた記述がなかったので、捨てようかと思ったが、珍しそうなのでやめた。翌年刊の続篇は国会図書館にあるが、デジタル版になっていて原本は確認できない。
千代田遺産の紀伊国坂の説明も、引用元と若干字句の違う所がある。これを赤字で示す。

説明板前半には、次のように書いてある。
『紫の一本』という本には「紀伊国坂、松原小路より竹橋御門へ出る坂をもいう。今の灰小路の所、もと尾張紀伊の御屋敷ありし故なり」とあり、

国会図書館蔵正徳四年写本『紫の一本』には、
○〈前半略〉又松原小路より竹橋の御門へ下る坂をも紀の国坂といふ、今の灰小屋の所、もと尾張紀伊国の御屋敷ありし故也

とある。
「竹橋御門へ出る坂」と「竹橋御門へ下る坂」では全然違う。「灰小路」と「灰小屋」では全く違う。「灰小路」などという地名があるのか?


説明板後半には、次のように書いてある。
『再校江戸砂子』には「紀伊国坂、竹橋御門へくだる小坂をいう。むかし此所に尾紀の両御殿ありしなり。今、赤坂に同名あり。」とかかれています。

国会図書館蔵『再校江戸砂子温故名蹟誌』巻一には、
紀伊国坂 竹はし御門へくたる小坂を云 むかし此所に尾紀の両御舘ありし也今赤坂に同名あり
とある。

「御殿」と「御舘」とでは違う。
千代田遺産の紀尾井坂の説明にも若干問題がある。引用元と違う表現を赤字で示す。
掲示板の説明は次のとおり。
この坂を紀尾井坂といいます。『新撰東京名所図会』には「喰違より清水谷公園の方へ下る坂を称す。」、「喰違内坂を、紀尾井坂といふ、蓋し此坂の両側に、紀州、尾州、井伊三公の邸宅ありしが故に、各頭字を取り名とせるものなりといふ。」と記されています。
このあたりが紀尾井町と呼ばれているのも左記の理由からです。また坂下が清水谷なので清水谷坂の別の名もあったといいます。(下略)
『新撰東京名所図会』第十八編麴町之部下之一の、
●紀尾井町  ◎地名 阪路類 には、
紀尾井坂 喰違より。清水谷公園の方へ。下る坂を称ふ
とあり、同じく
●紀尾井町  ◎位置 名称 には、
喰違内の坂を。紀尾井坂といふ。蓋し此坂の両側に。紀州、尾州、井伊三公の邸宅ありしが故に。各頭字を取り名とせるものなりといふ。
「喰違内の坂」とあるものを勝手に「喰違内坂」としたのでは、「喰違内坂」という坂があると誤解されるではないか。
左記の理由から」というのはオカシイ。「右記の理由から」とすべきだ。右と左もわからないのか。
千代田遺産の「行人坂」の説明板の記述もオカシイ。
説明板には、次のようにある。

この坂を行人坂といいます。『新撰東京名所図会』には「行人坂、上六番町と中六番町との間を南の方に上る坂を称す」とかかれています。また、『御府内備考』にも「行人坂、古某法印と称する行人この辺りに居するゆえにこの名あり。また法印坂とも呼び或は転化して法眼坂という」とあります。もともと一連の坂を起伏により東郷坂、行人坂、南法眼坂と三つの名に分けてよんだものであり、法眼坂の名称だけの地図も多いようです。

ところが、
『新撰東京名所図会』第十九編麴町区之部下巻之二の
●番町 ○地理 の部には、

行人坂 上六番町と中六番町との間より。南の方に上る坂を称す。

とある。「間より」を「間を」と勝手に書き換えている。

更に問題なのは『御府内備考』の方だ。
『大日本地誌大系第一冊』(大正三年)の『御府内備考』巻之六御曲輪内之四 には、
  行人坂
裏六番町・表二番町の間にあり。中比この坂の傍に、何がしの法印といふ行人住居せし事あり。ゆへに行人坂といふ。或は法印坂ともいふ。法印坂を誤て法眼坂と云ものあり。【江戸紀聞】

とある。全然記述が違う。昭和四年版も大正三年版と全く同じだ。
千代田区の説明板の記述は、どこから持ってきたものか。ここにはルビが全くないが、「古某法印と称する」をきちんと読める人がどれだけいるだろうか。

千代田遺産の掲示板の記述がどうもウサン臭いと思って調べてみると、「御厩谷坂」の説明板もオカシイ。
説明板には、次のように書かれている。
この坂を御厩谷坂といいます。『新撰東京名所図会』には「一番町と上六番町との間、すなわち井伊家邸前より南の方に係れり。厩谷もと御厩谷という。むかし徳川将軍家の厩舎ありしに因り此名あり。」と記されています。また、「新編江戸志に今も紅梅勘左衛門殿やしきに御馬の足洗いし池残りてあるなりというと見えたり」ともかかれています。
ところが、『新撰東京名所図会』第十九編麴町区之部下巻之二の
●番町 ○地理 の部には、
厩谷 一番町と上六番町との間。即ち井伊家邸前より。南の方に係れり。
とあり、
●番町 ◎邸宅類 の部には
  ○厩谷
厩谷もと御厩谷といふ。一番町と上六番町とに亘(わたれ)る低地をいふ。むかし徳川将軍家の厩舎ありしに因り。此名あり。新編江戸志に。今も紅梅勘左衛門殿やしきに。御馬の足洗ひし池残りてあるなりといふと見えたり。
とある。
第一、『新撰東京名所図会』の記述は「厩谷」の説明であって、「御厩谷坂」の説明ではない。
第二、千代田区の説明板は、『新撰東京名所図会』の「地理」部の記述と「邸宅類」の記述を勝手に編輯して一つにまとめ、あたかもこの説明文が『新撰東京名所図会』そのままであるかのように見せ掛けている。
これは欺瞞だ。
アマゾンの古本屋の配送料がさまざまだ。
某文庫本の場合、
200  255  257  300  350
とまちまち。どうしてこんな差が出るのか。
千代田区富士見二丁目14番に
「与謝野鉄幹 晶子 居住跡」の遺跡があり、該文字を彫った石柱と、説明掲示板とがある。後者は写真では石造のように見えるが、日本語文字は明朝体である。普通の木札ではない。
問題は最後の一節。
明治37年『明星』に掲載された晶子の「君死にたもうことなかれ」は、戦地にいる弟(鋳三郎)の身を案じた詩としてあまりにも有名である。
ウィキには、晶子の弟は、
鳳籌三郎
とある。
発音は同じだが、「鋳」と「籌」とでは、金と竹とで大違いだ。
この説明板は誰が作ったとも(表面には)書いてないが、千代田遺産となっているのだから、千代田区の仕事だろう。
「旗本屋敷跡」の立札といい、この「与謝野鉄幹晶子居住跡」の説明板といい、千代田区の仕事には問題がある。
東京都千代田区富士見2丁目2-3-16、日本歯科大学付属病院前に「旗本屋敷跡」の立札があり、千代田遺産となっている。
千代田区教育委員会が設置した「旗本屋敷跡」の説明立札に次のような件がある。
また、石碑は同時代のものとして残されていたものであり、『下乗(かじょう)』と読みます。下乗とは「道家の第三洞の教。神をいう」と辞書にあります。しかし石碑建立の動機については不明です。
何という辞書を調べたのか不明だが、手許の何種類かの辞書を見てもこのような説明は載っていない。「げじょう」と読むのが普通だろうが、「げじょう」と読んでも「かじょう」と読んでも、「馬から降りろ」「乗馬乗入禁止」という意味に決まっている。旗本屋敷に馬で乗り入れる人はいないだろうが。
下馬札はこの「旗本屋敷跡」の立札のように木で立札にするのが普通だが、この遺跡は石造だ。木造は「下馬札」、石造は「下乗石」という。
四十年ほど前、成田線の無人駅でフラッと降りたことがある。駅舎も跨線橋もなかった。周囲に人家らしきものも見えなかった。線路の南、田圃か畑の真ん中に一本道があり、数百メートル先に小山、祠があった。次の電車がくるまで、ボーとしていた。
当時無人駅だったのは、大戸駅、久住駅、酒々井駅。大戸・久住は今も無人駅だ。
GoogleMapで見ると記憶に一番近いのは大戸駅だ。しかし、私が立ち寄ったのは大戸神社ではない、もっと手前の小山にあった。
風景的には下総神崎駅のような感じだが、ここが無人駅だったという記述はない。
アマゾン、印刷工場から本を直納
https://this.kiji.is/331811525126030433?c=39546741839462401
共同通信によると、
インターネット書店大手のアマゾンジャパンは1日、大日本印刷、凸版印刷と協力し、一部の書籍や雑誌を印刷工場からアマゾンの倉庫に直接納入するなどの新事業を開始すると発表した。配達完了までの時間を短縮し、細分化している読者のニーズに応えることが目的という。

素人考えでは、印刷しただけではダメで、製本が必要ではないかと思うのだが、今の印刷所には製本所もあるのだろうか。
アマゾンに同意・協力した出版社に対して、取次がイヤガラセをするなどの問題は起きないのだろうか。
富士フイルムはカメラフィルム以外で稼いでいるし、大日本印刷も紙印刷以外の稼ぎの方が多いと聞いたことがある。取次会社はどんな方向に活路を見出すのだろうか。

「蝶」を虫へんに「葉」と書く人がいる。これは「蝶」が常用漢字でなく、学校で教わる「葉」が頭にあって、「蝶」はもとより「枼」「渫」にお目にかからないためだ。
「葉」につく「虫」なら芋虫かと思うが、芋虫もやがては蝶になる。
野村秋足作詞、唱歌「蝶々」には、
蝶々蝶々菜の葉に止れ
とある。

なぜ「菜の花」ではなく「菜の葉」なのか、というのは誰しも抱く疑問だが、稲垣栄洋『蝶々はなぜ菜の葉にとまるのか』によると、「菜の花ではなく菜の葉で正しい。産卵のためにとまるからです」とのこと。
明和八年(1771)序の『山家鳥虫歌』に、
蝶よ胡蝶よ菜の葉にとまれ
とあり、岩波文庫で浅野健二は「江戸初期の流行小歌か」とする。
ある事柄についていろいろ調べていると、突然新たな情報にぶつかって目の前がパッと明るくなることがある。
昔は、書店・古書店・図書館・本で然るべき情報に出会ったが、今はネットだ。
昨年末から今年にかけて、三件の新情報を得た。12月末はネット上で見た本の中。1月上旬は Google で。1月下旬は CiNii で。
今まで気付かなかったものに出会うのは、偶然か啓示か執念か。
昨日は皆既月食だった。当地では曇って見えなかった。「皆既月食」という表記はおかしいのではないか。「皆虧月蝕」が正しいのではないか。
「蝕」は常用漢字にないから「食」で置き換えるのは仕方ないとしても、「虧」は「欠ける、減らす、損なう」の意味だが、これを「既」に置き換えるというのはどういうわけなのか。「既」は「ことごとく」だから、「皆」と「既」とで意味が重複する。強調か。
『玉葉』に
(承安五年四月十五日)此日皆虧月蝕
とある。
『師郷記』に、
(永享五年十一月)十五日、甲午、今夜月蝕皆虧之由載暦、然而一切不蝕者也
とある。
『慶長日件録』に、
(慶長十一年八月)十四日、微雨、戌亥刻月蝕皆虧、此時刻晴天
とある。
しかし、
『玉葉』には
(建保三年八月十四日)子剋。月蝕。皆既正見。
(寛喜元年十一月十四日)天晴。今夜月蝕皆既
ともある。
「皆既」という表記は、文部省のお役人が、「虧」が常用漢字にないので「既」に置き換えたというのでもないらしい。
オーム社 eBook Store が販売終了(閉鎖)というニュースを見た。
http://ohmshaebookstore.hatenablog.com/entry/2018/01/31/131333
オーム社といえば、コンピュータ関連書を出している所だ。最先端の出版社が電子書籍の販売を止めるというのは、時代の流れに逆行しているのではないか。
見ると、業態の問題ではなく、人材流出で、このストア担当者が続々とやめてしまい、電子書籍販売の運営ができなくなったらしい。
http://www.geekpage.jp/blog/?id=2017-12-1-1
電子楽譜専用端末の広告を見た。端にタッチするとページがめくられる。昔、コンサートで楽譜のページめくり係がいたのを見た。速い曲の場合、演奏者が自らタッチする時間があるのだろうか。楽譜タッチ係が側につくのでは電子楽譜の意味がない。
PDF形式の電子楽譜約4,000冊を端末に取り込むことができるという。
私は楽譜が読めず、楽器演奏もできないので全く関係ない。
某ブログに
柴田錬三郎さんの「大将」を拝読しました。
とあった。
これはオカシイ。柴田錬三郎はとっくに死んでいる。死者に対して謙譲語を用いるというのは間違いだ。
歴史上の人物、有名人に対しては敬語を用いないのが原則。
そもそも「さん」付けがオカシイ。「夏目漱石さん」「太宰治さん」などというのと同じ。この人は三十代。柴田と付き合いがあったとは思えない。誰にでも敬語を使えば良いというものではない。
高校二年の時の英語添削問題に「bug」という言葉があった。手許の中辞典を見ても然るべき意味が載っていない。先生に尋ねても「小さい虫のことを言うよね」との回答。これでは意味が通じない。後日送られてきた解答解説には「コンピュータプログラムの誤り」とあった。今から50年以上前。「バグ」「デバグ」という日本語が普通に使われるようになったのはそれから二十年以上後のことではなかったか。
某スーパー前の通路で「洋酒買取」という業者が店を出していた。飲まない酒があったら買います、という。日本酒は何故買わないのか。禁煙奨励のため、煙草のカートンも買い取ったらどうか。
「ピアノ売ってちょうだい」というCMは1997年から始まったという。押し売りならぬ「押し買い」が問題となったのは数年前だ。
某所の受付カウンター。複数の女性が何時間ずつかで交代している。Aさんはニコニコと立ち上がってカウンターから身を乗り出すようにして迎える。Bさんは笑顔は見せるが座ったまま。Cさんは三度ほど立ち上がったことはあったが、あとは座ったままで、笑わない。その他の人はすまして座ったまま。
Aさんの態度は「待ちかねていました」というような感じで、こちらの足も速くなってしまう。営業職ではないので、会社の受付を訪れたことは数えるほどだが、Aさんのような人は見たことがない。Aさんに幸あれと願わずにはいられない。少なくとも、座ったままよりは時折立ち上がった方が健康にはいいだろうから、Aさんは他の人よりも長生きはするだろう。
「防衛食」という言葉を初めて知った。ウィキペディアにも『日本国語大辞典』にも『広辞苑』にも載っていない。昭和22年頃の市川の荷風を描いたイラストに「ふとん」「あきビン」「防衛食」「コンロ」「キセル」「刻ミ」「洋モク」とある。缶詰かと思ったが、Googleで調べると、陶器に食料を詰めたようだ。
自衛隊では「国防食」を食べているという。これはレトルトパック。プラスチックケースか。
我が人生初の試験は、幼稚園の入園テストだった。箱が二つあって、「どっちが大きい?」と訊かれた。その後何問かあったのだろうが、覚えていない。それからは筆記試験ばかりだった。教員採用試験はグループ面接があった。大学院入試は変体仮名を読むテストと口頭試問があった。今は自分で課題を作り、自分で解決しようとしている。何の問題も浮かばなくなったら、この世とおさらばだろう。それ以前に寿命が尽きるかもしれない。
太田黒伴雄という人がいたことを知った。神風連の乱の首領で、明治九年に没したという。これで思い出したのが大田黒元雄。子供の頃NHKラジオ『話の泉』で度々名前を聞いた。大田黒元雄太田黒伴雄をもじった筆名かと思い、調べたがウィキによると本名らしい。このような偶然もあるのだ。
『とんち教室』の長崎抜天は筆名だ。明治時代の雑誌を見ていると、長崎抜天という戯号が出て来る。
懸賞垂れ幕(日本相撲協会では「懸賞旗」と言っている)が土俵を廻る時、NHKは引いてしまうが、AbemaTVはまともに見える。今日は「九十九島」という垂れ幕があった。ウィキを調べると、六箇所もある。
①九十九島 (西海国立公園)(くじゅうくしま) - 長崎県佐世保市から平戸市にかけての海岸線沿いに浮かぶ島々の総称。西海国立公園の一部
②九十九島 (島原市)(つくもじま) - 長崎県島原市沖に浮かぶ島々の総称
③九十九島 (くじゅうくしま) - 秋田県にかほ市。1804年の地震で干上がった島々で学術的に貴重。象潟も参照。
④九十九島 (能登半島)(つくもじま) - 能登半島内浦の代表的な景観。
⑤九十九島 (今治市)(つくもじま) - 大島の東沖合いの無人島。
⑥九十九島 (松山市)(くじゅうくしま) - 松山市の松山観光港沖合いの無人島。
無人島が懸賞金を出すわけがないから、①~④のいずれかだろう。金を出している側は解るだろうが、見ている者は全くわからない。
ネットで大相撲を朝からタダで見られるようになった。今日つけた時は序の口は終わっていた。序二段が200人以上もいるのには驚いた。体格は幕内と変らない。あちこち怪我をしていて、もうやめて転職した方がいいのではないかと思われるような力士もいる。土俵に上がるのに踏み段があるが、そこでつまづく人を何人か見た。階段の上り下りもおぼつかないのでは大成しないだろう。
いつぞや力士のキラキラネームが新聞記事になっていたが、今日の取組では「艶郷(つやさと)」対「黎大(れおん)」というのがあった。「レオン」はキラキラか。「艶郷」は意味がわかっているのか。序二段で艶郷に出入りしているようでは見込みナシだ。
[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9]
カレンダー
07 2018/08 09
S M T W T F S
1 2 3
5 7 8 9 11
12 14
19 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
カテゴリー
フリーエリア
最新コメント
最新トラックバック
プロフィール
HN:
gwaikotsu
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
忍者ブログ / [PR]
/ Template by Z.Zone