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気が向いたら思いついたことを書いてみます
『新撰東京名所図会浅草区之部』(明治四十一年四月)に、
須賀橋は。陸羽街道なる須賀町と蔵前片町との間を通ずる鳥越川に架す。木製の橋梁にして。傍に水道の鉄管を架し。共同物揚場等あり。昔時は二橋相並びて之を鳥越橋といひ。後に新鳥越橋に対して。元鳥越橋と称す。浅草米廩の前に当り。満潮の時は船舶の通ずるを以て。一名を千石橋といへり。又附近に牛頭天王社あるより。之を俗に天王橋と呼び来れり。往昔此辺に鳥越刑場あり。罪人をして此橋より急行せしめたれば。俗に地獄橋とも称したりといふ。明治以後天王社を須賀神社と改めしより。此橋を須賀橋と称することゝせり。
とある。
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浅草蔵前新堀川下流に「天王橋」がかかっていた。
文久三年『東都浅草絵図』に、「鳥越橋/里俗天王橋ト云」とある。鳥越川と新堀川との合流地点のすぐ東。橋の南西に「天王町」がある。現在の須賀橋交番前交差点付近。須賀橋交番の現住所は、台東区柳橋2丁目16番12号。交差点の西は台東区浅草橋三丁目。
『柳橋新誌』二編に、
天王橋畔騎人一嫗を踏殺す(岩波文庫)
天王橋畔、騎人、一嫗を踏み殺す(岩波新古典大系)
とある。元の漢文は、
天王橋畔騎人踏殺一嫗(明治七年刊本)
天王橋畔。騎人踏殺一嫗。(『柳北全集』)
である。
増田太次郎『引札絵ビラ風俗史』(青蛙房。昭和五十六年)は、「神亀堂」の引札を紹介して、
この引札で不思議なのは占者の住所である。占者が表通りの立派な家に住んでいるとは限るまいが、それにしても「浅草区福富町廿九番地、但シ天王寺橋側きんつばや横町へ入り、取付の橋へつき川岸を半丁程で……の裏」とある。
としている。しかし、第41図の影印を見ると、住所は、
浅草区福富町廿九番地但シ天王橋側きんつばや横町へ入り取付のはしへつき……
とある。「天王寺橋」ではなく「天王橋」である。
天王寺は大阪の寺だ。江戸・東京に「天王寺橋」はないだろう。
篠田鉱造『幕末百話』には、
道々天王寺橋の所を通つて来ると(『増補幕末百話』万里閣書房。昭和四年。313ページ)
道々天王寺橋の所を通つて来ると(岩波文庫。196ページ)
とある。これは聞き違いか。篠田は赤坂出身で、下町のことには詳しくなかったか。
辻番は生きた親爺の捨てどころ(川柳)
信心は浮世の憂さの捨てどころ(川柳)
雪の肌(はだえ)に氷の刃(やいば)露の命の捨てどころ(小松帯刀)
旅路は恥の捨て所
御国の為と思ひなば露より脆き人の身はここが命の捨て所(「道は六百八十里」石黒行平作詞)
酒は涙かため息か心の憂さの捨て所(「悲しい酒」石本美由起作詞)
最近、自動販売機の横にあったペットボトル捨て箱が撤去されている所が目立つ。空のペットボトルを始末するのが面倒なのか。それなら、販売機を置くな。
篠田鉱造『幕末百話』(岩波文庫)に、
かの鰺切り庖刀でグサと鈴木屋の横腹へ文部大臣を極(きめ)込んじゃったんで
とある。
横腹を刺された文部大臣といえば、森有礼か。ウィキペディアには、
明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法発布式典の日、それに参加するため官邸を出た所で国粋主義者・西野文太郎に短刀で脇腹を刺された。応急手当を受けるが傷が深く、翌日午前5時に死去。43歳だった。
とある。
「文部大臣を極める」とは面白い表現だが、時事用語で、しばらくすると死語になってしまう。
重箱の隅を楊枝でほじくる
重箱の隅を楊枝でほじる
重箱の隅を楊枝でつつく
重箱の隅を楊枝で払う
重箱を楊枝でつつく
重箱の隅をほじくる
重箱の隅をつつく
という言い回しはあるが、篠田鉱造『幕末百話』(岩波文庫)に、
重箱を楊枝で洗う
とあった。
擂粉木で重箱洗う
連木で重箱洗う
という表現があるようだから、その反対で、
重箱を楊枝で洗う
があってもおかしくはない。
松岡圭祐『八月十五日に吹く風』を読んだ。「事実は小説よりも奇なり」とは、ネットを見るとバイロンの言葉とあるが、私にとっては高橋圭三「私の秘密」の名文句だ。フィクションではないかと疑いたくなるほど、ドラマチックなストーリー。
冒頭に、
この小説は史実に基づく
登場人物は全員実在する(一部仮名を含む)
とある。
日置昌一『ことばの事典』「三角関係の話」には、
わが国では大正十二年七月七日に小説家有島武郎が三角関係のため軽井沢において愛人波多野秋子と心中してから、いちやく世に知れわたったことばである。
とあるが、『日本国語大辞典』には、
近代の恋愛観(1922)〈厨川白村〉八
の例が挙がっている。1922年は大正十一年だから、有島事件より前。果たして「三角関係」という言葉を作ったのは誰か。
平山蘆江は『東京おぼえ帳』で、
三角関係といふ言葉がはやり始めたのは、大正も半ば近い頃だらう
と言っている。
『国書総目録』を調べると「日比谷」というのがあった。しかし、この本は日比谷図書館にはなく、都立中央図書館にあるのだよ、ということを教わった。
ウィキペディアには、
戦後の日比谷図書館は、1949年(昭和24年)11月に京橋仮館舎にて閲覧を再開した。1951年(昭和26年)3月に館長に就任した土岐善麿は新館の建設を進め、図書館は改築工事のために1955年(昭和30年)2月に港区麻布(現在の有栖川宮記念公園)にあった養正館に一時移転した。
とあるが、東京誌料・加賀文庫などの特別資料は、この時から麻布を動かなくなったのだろうか。
したがって、日比谷図書館(現在は日比谷図書文化館)には行ったことがない。しかし、千代田区立千代田図書館には二度行ったことがある。一度は展示会、一度は時間つぶし。
上野不忍池に競馬場があったのは知っていたが、今日は、「池上競馬場」があったというのを初めて知った。東急池上線千鳥町駅・池上駅・蓮沼駅と、東急多摩川線武蔵新田駅・矢口渡駅に囲まれた地域にあった。当時の住所は東京府荏原郡池上村字徳持495、今は大田区池上六~八丁目だ。明治39年から明治43年までの5年間という短い命。ウィキペディアに記述がある。
今はずっと東の方に平和島競艇場があるようだ。
私の知っている瀧川さん。
瀧川龜太郎(資言。1865年12月29日 - 1946年2月23日)漢学者。『史記会注考証』等。
瀧川政次郎(1897年5月26日 - 1992年1月29日)法学者。硬軟両著書あり。
瀧川鯉昇(本名:山下秀雄。1953年2月11日 - )落語家。
ツクツクホーシの鳴くのを聞いた。暦の上では秋だ。
明治十八年四月十四日の「朝日新聞」に、
古語(ふるきことば)にも母の膝は教の机とも云ば
とある。この諺を掲載した辞書はあるのだろうか。少なくとも、藤井乙男『諺語大事典』には載っていない。
ネットを見るとイギリスのバローが、
教育は母のひざに始まり、幼年時代に聞く全ての言葉が性格を形成する。
と言っているという。バローとは知らないが、ネットに
アイザック・バロー(Isaac Barrow、 1630年10月 - 1677年5月4日)
とある。ニュートンの先生だとか。
鳶魚江戸文庫28(中公文庫)182ページに、
巨劈(おやだま)
とあった。
『新漢語林』には、
劈 ①つんざく。つきやぶる。②さく。わける。
とあって、「親玉」らしい意味はない。これは、
巨擘
の間違いであろう。
『三田村鳶魚全集』第八巻(中央公論社)103ページにも、
巨劈(おやだま)
とある。文庫化に際しての誤りではなく、全集の時点で間違っていたようだ。
編集
森 銑三
野間光辰
朝倉治彦
となっているが、これらの大先生は校正などしなかったろう。
『足の向く儘』(国史講習会。大正十年)198ページにも、
巨劈(おやだま)
とある。「底本が間違えていたので間違えました」という言いわけは通用しない。
中学校の体操の時間に番号掛けがあり、間違えると「もとい」と初めからやり直しをさせられた。高校の先生は、言い間違いをすると「もとい」と言って言い直した。
「もとい」というのは国語辞典にはなかろうと思ったら、あった。しかし、「空見出し」だ。いずれも「『もとへ』を見よ」となっている。しかし、私は「元へ」という発音は聞かなかった。全て「元い」であった。国語辞典としては「もとへ」を空見出しにすることはできないのだろう。
私自身は「元い」という言葉は使わない。しかし、私より一回りも若い人が文章で「もとい」と書いているのを見た。どういう教育を受けたのだろう。
日置昌一『ものしり事典』「タワケ者の語源」に、
阿呆、馬鹿の意味にもちいられているが、その起源は田分という言葉から始まつたものという。すなわち滄浪夜話に「中農夫以下は男子何人あるとも田畑を分つべからず、たはけ者という諺も是より始る」とあり、祖先を祀り、永くその家を守るためには動産を弟妹に分配するのはよいが、不動産を譲与しては段々細分化されて、ついには共倒れになつてしまうというのである。
とあり、以下詳細な記述がある。
近年は、田分、地分、家分が大流行のようだ。近所の百坪足らずの家が更地になり、その後には八軒の分譲住宅ができるという。別の所では百坪以上のお屋敷跡が四軒の住宅になった。これはマシなほう。オンボロ文化住宅の跡には五軒のペンシル住宅が出来た。人口減といいながら、小規模な分譲住宅は増える一方。おかしな世の中だ。
宮武外骨に『近世自殺者列伝』なる著書がある。明治元年から昭和六年までに自殺した次の58名を列挙。
堀直虎  川路聖謨  橫山安武  土肥實光  山城屋和助  中根米七  野村比登志  小原彌惣八  川上冬崖  中野梧一  玉乃世履  來島恒喜  畠山勇子  曾田愛三郞  飯島喜左衛門妻  佐々木莊助  都筑原  平井忠雄  藤澤繁  北村透谷  藤野湖泊  田澤稻舟  藤村操  櫻井廣三郞  川上眉山  酒匂常明  小泉盜泉  金春七郞  乃木希典  岡田滿  吉田收吉  篠田恒太郞  井上吸水  鷲尾せき子  岩本榮之助  富永淸藏  押川則吉  山本芳夫  松井須磨子  濱田榮子  朝日平吾  野村隈畔  竹内正策  有島武郞  久野久子  池田政佑  芥川龍之介  水城圭次  北川三郞  小柳喜三郞  羽太鋭治  佐分利貞男  生田春月  江木欣々  草刈英治  高根義人  近藤焦雨  須山禎郞
昭和平成の自殺者列伝があるのかどうか、知らない。
「日光を見ずして結構と言うなかれ」という諺のような言葉があるが、ネットを見ても出典を明記してあるものはない。
神野由紀『趣味の誕生』(勁草書房)によると、
明治三九年の『時好』には「日光を見ずして結構を語る勿れ 時好を読まずして流行を談ずる勿れ」という広告コピーが見られる。
とある。
『時好』とは三越百貨店の広報誌である。「日光を見ずして結構と言うなかれ」の原型は「日光を見ずして結構を語る勿れ」であり、三越のキャッチフレーズの一部だったのだ。
日置昌一『ものしり事典』に、
大東亜戦争中の愛国歌人として知られた川田順(六十八歳)と、京都大学教授経済学博士中川與之助の前婦人鈴鹿俊子が和歌を通じて恋愛に陥り、昭和二十三年十二月三十日に順がそのために洛東真如堂の境内で自殺をはかつて未遂に終つたことがあつたが、そのとき彼が友人に宛てて送つた遺書の中に、
  若き日の恋は はにかみて面(おもて)赤らめ
  壮子時(おさかり)の四十路の恋は世の中に
  かれこれ心配れども
  墓場に近き老いらくの
  恋は怖るる何ものもなし
と詠じていたので、「老いらくの恋」として、華々しく当時のジャーナリズムにさわがれたのである。そしてこのことから二人は間もなく結婚へと進み、ついに愛の巣をつくるに至つた。
とある。
「老いらくの恋」とは川田順の造語のようで、戦前に例を求めることはできないだろう。
今は七十代で数十歳も若い女性と結婚する人が多いようだが、「老いらくの恋」とは言われないようだ。双方打算があるからか。
漱石が称賛した三代目柳家小さんは、晩年(大正末期)、同じ所を繰り返し話したりして幕を下ろされた。並河益義(八代目桂文楽)はこれを見ていて、自分もああなった時にはどうしようかと考えていたという。
昭和四十六年八月三十一日、国立劇場小劇場で『大仏餅』を話したが、人名が出て来ず絶句し、「台詞を忘れてしまいました……」「申し訳ありません。もう一度……」「……勉強をし直してまいります」と挨拶し、途中で高座を降りた。
私は平成初期、病み上がりの二代目神田山陽が、話が先ヘ進まず、同じことの繰り返しになるのを目の当たりにした。平成十二年没というから、その数年前だろうか。着物を着ず、トレーニングシャツ・パンツ姿だった。
出久根達郎『古書法楽』に、本間久『枯木』についての記述がある。
たったひとつ印象に残ったのは上野図書館の場面であった。夏季の開館は午前七時であるが、開門はあけ方三時半だというのである。当時は入館者に番号札を渡した。一番札を取りたい一心で主人公が毎朝三時に起きてかけつけると、いつもすでに四、五人が足踏みしていたという。一番札から順に入館するのである。入口で監督官が大声で札番号を読みあげるのであった。
私が二十歳過ぎに行ったのは議事堂横の国会図書館だが、数日間一番乗りしたことがある。二番目は法律を勉強しているらしい大柄な青年だった。今は三十分前に建物に入れるが、当時は開館時間と共に入口扉が開けられた。
明治時代の上野図書館は朝七時開館で日曜日も開いたという。今の国会図書館はこれを見習ってほしい。
『団団珍聞』の戯画は当時の政治経済風俗を知らないと理解できないものが多い。第百二号(明治十二年)には、戯画・戯文の中央に証文がはっきりと書かれている。
  おぼへ
一我らこと三味せんを引かずにうすぐらき座敷江はいりこみお客さんとこそこそ致し候段重々恐れ入候此後おうらへいたしまいらせ候へば御ぶんしよへ御訴へ下され候ても一こん申しわけ無御座候めで度かしく
明治十二年三月十三日
      同宿 芸者中
遠江国敷知郡
 浜松宿貸座敷
  御女郎衆中さま
芸者連は猫、女郎連は狐に描かれている。この当時、遠江国は「静岡県」となっていた。どこまで本当かわからないが、類似の事件があったことは間違いないだろう。「おうらへ」とは「応来芸者」「オーライ芸者」と言われる行為。「みずてん」「転ぶ」とも。
芸者に限らず、「転ぶ」のはよくない。高齢者が転ぶと寝たきりになってしまうことが多いという。
ネット記事に、
タケシマ文庫では、自分からは客に話し掛けない。
とあった。フリの客に声をかける古書店主はいないだろう。
「男はつらいよ」第十七作「寅次郎夕焼け小焼け」はシリーズ中最高傑作だと思うが、寅次郎が入った大雅堂の主人・大滝秀治が寅さんに声をかけてしまう。あそこは何とかならなかったのかな、と残念に思う。
百貨店では、店員が客に声をかけるという。したがって、私は百貨店には行かない。(本当は金がないからだが)
『団団珍聞』第二百九十六号(明治十五年十一月)に「没書規則」という読者からの提案が載っている。
第一条 団々社に於て没す可き稿を三種と為す
  一 盗句(ぬすみく)
  二 焼直し
  三 平凡(へぼ)
「焼直し」でも、よく出来たものは「換骨奪胎」とされ、咎められることはない。
第四条 焼直しは之を二種に別つ
  一 換骨法に拠つて甘(うま)く焼直せしものは載する事を得
  二 焼損じにて古人の臭気鼻を撲つ者は都(すべ)て流没に処す
明治初期には、演説会があちこちで開かれた。
「ヒヤヒヤ」という掛け声は、いつ頃から発せられるようになったのだろう。
ウィキペディアには、
ヒヤヒヤ(英: hear, hear)は人の発言内容に対して賛意を表す際に聴衆が発声する英語由来の表現でhear him, hear himの短縮形。しばしばhere, hereと表記されるが誤りである。
などとあって、日本の例は載っていない。
『日本国語大辞典』には、
郵便報知新聞明治一六年(1883)四月三〇日
の例が挙がっている。
しかし、『団団珍聞』明治十五年十二月二十五日(第三百七号)には、
竪板に水を流す様な演説には聴衆(きゝて)がヒヤヒヤ
とある。
宮武外骨『明治演説史』(大正十五年)には、
明治十二年六月の末頃、大阪市内へ土佐の立志社員が入り込み、馬乗り袴を着けて駿馬に跨がり、行人雑沓の四辻、又は広い空地に於て、〈中略〉など、猛烈悲憤の論を叫ぶので、忽ち聴衆は群集して往来も止り、ヒヤヒヤの叫びは四辺を驚かすの物凄い景状
とある。ただ、これは外骨の表現かもしれない。当時の新聞を引用したのであれば、『団団珍聞』よりも古い例となるが、未確認。
落語の「夜店風景」に秘伝書売りが出て来る。
ひと月、十円で食える方法
電気、ガス無くして明るくなる法
釜無くして飯を炊く法
酒無くして酔える法
泳ぎを知らずして水に溺れぬ法
『団団珍聞』第二百九十七号(明治十五年十一月)には、
諸軒秘法伝授物
として、
犬に噛れぬ伝
鯰を肥す伝
公撰を制する伝
人に知れぬ様猫を集る伝
地震を避る伝
いつ迄も寝て居られる伝
が挙がっている。
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