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気が向いたら思いついたことを書いてみます
鳶魚江戸文庫28(中公文庫)182ページに、
巨劈(おやだま)
とあった。
『新漢語林』には、
劈 ①つんざく。つきやぶる。②さく。わける。
とあって、「親玉」らしい意味はない。これは、
巨擘
の間違いであろう。
『三田村鳶魚全集』第八巻(中央公論社)103ページにも、
巨劈(おやだま)
とある。文庫化に際しての誤りではなく、全集の時点で間違っていたようだ。
編集
森 銑三
野間光辰
朝倉治彦
となっているが、これらの大先生は校正などしなかったろう。
『足の向く儘』(国史講習会。大正十年)198ページにも、
巨劈(おやだま)
とある。「底本が間違えていたので間違えました」という言いわけは通用しない。
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中学校の体操の時間に番号掛けがあり、間違えると「もとい」と初めからやり直しをさせられた。高校の先生は、言い間違いをすると「もとい」と言って言い直した。
「もとい」というのは国語辞典にはなかろうと思ったら、あった。しかし、「空見出し」だ。いずれも「『もとへ』を見よ」となっている。しかし、私は「元へ」という発音は聞かなかった。全て「元い」であった。国語辞典としては「もとへ」を空見出しにすることはできないのだろう。
私自身は「元い」という言葉は使わない。しかし、私より一回りも若い人が文章で「もとい」と書いているのを見た。どういう教育を受けたのだろう。
日置昌一『ものしり事典』「タワケ者の語源」に、
阿呆、馬鹿の意味にもちいられているが、その起源は田分という言葉から始まつたものという。すなわち滄浪夜話に「中農夫以下は男子何人あるとも田畑を分つべからず、たはけ者という諺も是より始る」とあり、祖先を祀り、永くその家を守るためには動産を弟妹に分配するのはよいが、不動産を譲与しては段々細分化されて、ついには共倒れになつてしまうというのである。
とあり、以下詳細な記述がある。
近年は、田分、地分、家分が大流行のようだ。近所の百坪足らずの家が更地になり、その後には八軒の分譲住宅ができるという。別の所では百坪以上のお屋敷跡が四軒の住宅になった。これはマシなほう。オンボロ文化住宅の跡には五軒のペンシル住宅が出来た。人口減といいながら、小規模な分譲住宅は増える一方。おかしな世の中だ。
宮武外骨に『近世自殺者列伝』なる著書がある。明治元年から昭和六年までに自殺した次の58名を列挙。
堀直虎  川路聖謨  橫山安武  土肥實光  山城屋和助  中根米七  野村比登志  小原彌惣八  川上冬崖  中野梧一  玉乃世履  來島恒喜  畠山勇子  曾田愛三郞  飯島喜左衛門妻  佐々木莊助  都筑原  平井忠雄  藤澤繁  北村透谷  藤野湖泊  田澤稻舟  藤村操  櫻井廣三郞  川上眉山  酒匂常明  小泉盜泉  金春七郞  乃木希典  岡田滿  吉田收吉  篠田恒太郞  井上吸水  鷲尾せき子  岩本榮之助  富永淸藏  押川則吉  山本芳夫  松井須磨子  濱田榮子  朝日平吾  野村隈畔  竹内正策  有島武郞  久野久子  池田政佑  芥川龍之介  水城圭次  北川三郞  小柳喜三郞  羽太鋭治  佐分利貞男  生田春月  江木欣々  草刈英治  高根義人  近藤焦雨  須山禎郞
昭和平成の自殺者列伝があるのかどうか、知らない。
「日光を見ずして結構と言うなかれ」という諺のような言葉があるが、ネットを見ても出典を明記してあるものはない。
神野由紀『趣味の誕生』(勁草書房)によると、
明治三九年の『時好』には「日光を見ずして結構を語る勿れ 時好を読まずして流行を談ずる勿れ」という広告コピーが見られる。
とある。
『時好』とは三越百貨店の広報誌である。「日光を見ずして結構と言うなかれ」の原型は「日光を見ずして結構を語る勿れ」であり、三越のキャッチフレーズの一部だったのだ。
日置昌一『ものしり事典』に、
大東亜戦争中の愛国歌人として知られた川田順(六十八歳)と、京都大学教授経済学博士中川與之助の前婦人鈴鹿俊子が和歌を通じて恋愛に陥り、昭和二十三年十二月三十日に順がそのために洛東真如堂の境内で自殺をはかつて未遂に終つたことがあつたが、そのとき彼が友人に宛てて送つた遺書の中に、
  若き日の恋は はにかみて面(おもて)赤らめ
  壮子時(おさかり)の四十路の恋は世の中に
  かれこれ心配れども
  墓場に近き老いらくの
  恋は怖るる何ものもなし
と詠じていたので、「老いらくの恋」として、華々しく当時のジャーナリズムにさわがれたのである。そしてこのことから二人は間もなく結婚へと進み、ついに愛の巣をつくるに至つた。
とある。
「老いらくの恋」とは川田順の造語のようで、戦前に例を求めることはできないだろう。
今は七十代で数十歳も若い女性と結婚する人が多いようだが、「老いらくの恋」とは言われないようだ。双方打算があるからか。
漱石が称賛した三代目柳家小さんは、晩年(大正末期)、同じ所を繰り返し話したりして幕を下ろされた。並河益義(八代目桂文楽)はこれを見ていて、自分もああなった時にはどうしようかと考えていたという。
昭和四十六年八月三十一日、国立劇場小劇場で『大仏餅』を話したが、人名が出て来ず絶句し、「台詞を忘れてしまいました……」「申し訳ありません。もう一度……」「……勉強をし直してまいります」と挨拶し、途中で高座を降りた。
私は平成初期、病み上がりの二代目神田山陽が、話が先ヘ進まず、同じことの繰り返しになるのを目の当たりにした。平成十二年没というから、その数年前だろうか。着物を着ず、トレーニングシャツ・パンツ姿だった。
出久根達郎『古書法楽』に、本間久『枯木』についての記述がある。
たったひとつ印象に残ったのは上野図書館の場面であった。夏季の開館は午前七時であるが、開門はあけ方三時半だというのである。当時は入館者に番号札を渡した。一番札を取りたい一心で主人公が毎朝三時に起きてかけつけると、いつもすでに四、五人が足踏みしていたという。一番札から順に入館するのである。入口で監督官が大声で札番号を読みあげるのであった。
私が二十歳過ぎに行ったのは議事堂横の国会図書館だが、数日間一番乗りしたことがある。二番目は法律を勉強しているらしい大柄な青年だった。今は三十分前に建物に入れるが、当時は開館時間と共に入口扉が開けられた。
明治時代の上野図書館は朝七時開館で日曜日も開いたという。今の国会図書館はこれを見習ってほしい。
『団団珍聞』の戯画は当時の政治経済風俗を知らないと理解できないものが多い。第百二号(明治十二年)には、戯画・戯文の中央に証文がはっきりと書かれている。
  おぼへ
一我らこと三味せんを引かずにうすぐらき座敷江はいりこみお客さんとこそこそ致し候段重々恐れ入候此後おうらへいたしまいらせ候へば御ぶんしよへ御訴へ下され候ても一こん申しわけ無御座候めで度かしく
明治十二年三月十三日
      同宿 芸者中
遠江国敷知郡
 浜松宿貸座敷
  御女郎衆中さま
芸者連は猫、女郎連は狐に描かれている。この当時、遠江国は「静岡県」となっていた。どこまで本当かわからないが、類似の事件があったことは間違いないだろう。「おうらへ」とは「応来芸者」「オーライ芸者」と言われる行為。「みずてん」「転ぶ」とも。
芸者に限らず、「転ぶ」のはよくない。高齢者が転ぶと寝たきりになってしまうことが多いという。
ネット記事に、
タケシマ文庫では、自分からは客に話し掛けない。
とあった。フリの客に声をかける古書店主はいないだろう。
「男はつらいよ」第十七作「寅次郎夕焼け小焼け」はシリーズ中最高傑作だと思うが、寅次郎が入った大雅堂の主人・大滝秀治が寅さんに声をかけてしまう。あそこは何とかならなかったのかな、と残念に思う。
百貨店では、店員が客に声をかけるという。したがって、私は百貨店には行かない。(本当は金がないからだが)
『団団珍聞』第二百九十六号(明治十五年十一月)に「没書規則」という読者からの提案が載っている。
第一条 団々社に於て没す可き稿を三種と為す
  一 盗句(ぬすみく)
  二 焼直し
  三 平凡(へぼ)
「焼直し」でも、よく出来たものは「換骨奪胎」とされ、咎められることはない。
第四条 焼直しは之を二種に別つ
  一 換骨法に拠つて甘(うま)く焼直せしものは載する事を得
  二 焼損じにて古人の臭気鼻を撲つ者は都(すべ)て流没に処す
明治初期には、演説会があちこちで開かれた。
「ヒヤヒヤ」という掛け声は、いつ頃から発せられるようになったのだろう。
ウィキペディアには、
ヒヤヒヤ(英: hear, hear)は人の発言内容に対して賛意を表す際に聴衆が発声する英語由来の表現でhear him, hear himの短縮形。しばしばhere, hereと表記されるが誤りである。
などとあって、日本の例は載っていない。
『日本国語大辞典』には、
郵便報知新聞明治一六年(1883)四月三〇日
の例が挙がっている。
しかし、『団団珍聞』明治十五年十二月二十五日(第三百七号)には、
竪板に水を流す様な演説には聴衆(きゝて)がヒヤヒヤ
とある。
宮武外骨『明治演説史』(大正十五年)には、
明治十二年六月の末頃、大阪市内へ土佐の立志社員が入り込み、馬乗り袴を着けて駿馬に跨がり、行人雑沓の四辻、又は広い空地に於て、〈中略〉など、猛烈悲憤の論を叫ぶので、忽ち聴衆は群集して往来も止り、ヒヤヒヤの叫びは四辺を驚かすの物凄い景状
とある。ただ、これは外骨の表現かもしれない。当時の新聞を引用したのであれば、『団団珍聞』よりも古い例となるが、未確認。
落語の「夜店風景」に秘伝書売りが出て来る。
ひと月、十円で食える方法
電気、ガス無くして明るくなる法
釜無くして飯を炊く法
酒無くして酔える法
泳ぎを知らずして水に溺れぬ法
『団団珍聞』第二百九十七号(明治十五年十一月)には、
諸軒秘法伝授物
として、
犬に噛れぬ伝
鯰を肥す伝
公撰を制する伝
人に知れぬ様猫を集る伝
地震を避る伝
いつ迄も寝て居られる伝
が挙がっている。
漢文の授業で「左袒」を習った。何百人と出席者がいるのに、「賛成は挙手(起立)」などということをやっている時代遅れの国もあるようだ。
明治十六年六月の『団々珍聞』第三百四十八号には、読者からの提案文を掲げ、
前文賛成の御方は手を揚げ給へ不賛成の方は逸物を出し給へ
としている。この当時、女性の読者はいなかったようだ。
神戸新聞 2019/7/28 の記事見出しに、
JR神戸線、新快速電車が女性と衝突 ダイヤに乱れ
とあった。「衝突」という言葉に違和感を覚える。『日本国語大辞典』には、
二つ以上の物がぶつかり合って短い時間内に大きな力を及ぼし合うこと。
とある。数十キロの女性と、数十トンの列車とを対等に扱うのはオカシイ。
列車が女性を轢いたのだ。女性の側からすれば、線路に立ち入って轢かれたのだ。決して衝突したのではない。
十年ほど前、新幹線の電光掲示板に「接触」という表現があった。列車が人を轢いているのに、「接触」したという詭弁にいやらしさを感じた。
「衝突」「接触」ともにオカシイ。
CAがスカーフを首に巻くようになったのは、いつ頃からなのだろうか。
ネットを見ると、CA以外にも、スカーフやバンダナを首に巻く人がいるようだ。(男でも)
日置昌一『ものしり事典』には、
  ハンカチの頸巻の始
明治十九年六月ごろよりハンカチを頸に巻くことが流行しはじめ、当時の時事新報に「近ごろ女子師範学校および一ぱんの婦人にて白きハンケチを襟にまきつけ居るを見うけるが、いつたいドウいふ訳かはかりがたし、ヨシテ貰ひたし、ソレデ様子がよいといはば仕方なし」と皮肉つている。
とある。
ネクタイを首に巻くのも健康にはよくないのではないか。
某年表明治九年十月三日の項に、
開拓使、令して土人の耳環、鯨吻するを禁ず
とあった。
「耳環」はわかるが、「鯨吻」とは何か。辞書にもネットにもない。
ひょっとして、これは「黥吻」の誤植ではないか、と思った。ネットを見ると、
結婚後は唇の周りに髭を模した刺青を入れる。アイヌ女性に伝わる伝統文化を記録した写真
http://karapaia.com/archives/52236529.html
というページがあり、たくさんの写真が載っている。
「鯨」と「黥」のように、ツクリが同じで、ヘンも下が同じ、となると、昔の活版印刷所では間違えやすかったのだろう。音も「ゲイ」で同じだ。
日本図書センター『五代尾上菊五郎』(人間の記録42。平成九年)は、明治三十六年刊『尾上菊五郎自伝』の復刻版だが、誤字があった。131ページ写真のキャプションに「福岡賃」とある。菊五郎が福岡賃を演じたという話は聞いたことがない。巻末の「故尾上菊五郎が勤めたる役」には「福岡貢」とある。明治刊本のコピーを印刷所に渡し、日本図書センターの社員が校正したものであろうか。発行者以外、担当者などの名前は記されていない。
JT=日本たばこ産業は、販売中の「わかば」「エコー」「ゴールデンバット」の3つの銘柄について、10月以降、在庫を売り尽くした段階で販売を終了すると発表しました。
https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3734086.html
50年ほど前、エコーを吸ったことがある。一箱50円だった。短い上に葉詰めがスカスカですぐに燃えてなくなった。調べると、今は350円だそうだ。
ある本に、
マサカあんな正直な人が鍵もやるまいよ
とあった。意味は想像できるが、『日本国語大辞典』には載っていない。
新井益太郎『江戸語の屑籠』(三樹書房。平成十九年)には、
①錠前を開ける鍵をいう。
②客をだます遊女などをいう。
③盗人をいう。
とある。ここは③の意味だ。正確には、「盗人」というよりは「盗み」の行為を指す。
『日本国語大辞典』には①②の意味はあるが、③が欠けている。人差し指を曲げてカギ型を作り、泥棒・盗みを意味する合図にしていた映像を見た記憶がある。
鶯亭金升は「宝山人」とも号した。この由来は何かと思っていたが、『雅粋』第1号(明治二十五年十一月)に、
宝田の里人 鶯亭金升
と署名している。この当時、金升は、
麴町区有楽町三丁目一番地
に住んでいた。
ウィキペディアには、祝田町、宝田町、元千代田町の三町が、1967年4月1日から「皇居外苑」という地名表示になったとある。
住居表示による街区は1番から3番まで設定され、楠正成像やレストハウスのある地区が1番街区、和田倉噴水公園の所在地が3番街区、その中間が2番街区である。住居表示実施以前の旧町名は1番街区が祝田町、2番街区が宝田町、3番街区が元千代田町であった。
とあるので、皇居前広場付近が宝田町であったことがわかる。
金升住居の有楽町は、宝田町よりは祝田町に近いが、何か気に入る所があって「宝田の里人」と称し、遂には「宝山人」となったものではなかろうか。
ネット記事に「長沖一(ながおきまこと)」とあるのを見て驚いた。子供の頃、ラジオで「ナガオキマコト」という名前を度々聞いていたからだ。このような漢字を書くとは知らなかった。
ウィキペディアによると、
1954年からはラジオドラマ『お父さんはお人好し』等の台本を手がける。
とある。これだ。『お父さんはお人好し』を見ると、
長沖一のNHK大阪放送局制作で、NHKラジオ第1で放送されていたラジオドラマ。全国各地で公開収録がされていた。
1954年12月13日 - 1965年3月29日
月曜日 20:00 - 20:30
とある。
60年代には我が家にもテレビが入ってしまったから、50年代に布団の中で聴いていたものだ。大阪弁がよくわからなかったのを覚えている。放送の最後に「制作・ながおきまこと」などと毎週聞かされたのだろう。
三田村鳶魚が、
幕府の末に、英学扶持というものが創って、微禄で子供の多い御家人等は、長男以下ありったけの息子に、横文字の稽古をさせた。英学をさせます、とお届けさえすれば、早速英学扶持がくる、喰い稼ぎに、これほど便利なことはない。
と書いている。与力の家に生まれた塚原渋柿園も岡本昆石も、それで英語を勉強したのだろう。しかし、彼等は「英学扶持」のことを書き記していない。ネットを見ても「英学扶持」は出てこない。いつ頃始まり、いくらぐらい支給されたのか、わかるような資料に出会えることを願うのみ。
三田村鳶魚の文章に「八つァん・熊さん・みイちゃん・きイちゃん」とあった。
「みーちゃん・はーちゃん」ならわかるが、「きイちゃん」とは初めて見た。「みーちゃん・はーちゃん」なら「美代ちゃん」とか「花ちゃん」とか、よくある名前が出てくるが、「きイちゃん」とは、どういう名前を指しているのだろうか。
林不忘『丹下左膳』にも、「きイちゃん、みイちゃんの桃割れ達が賑やかに黄色い声をはりあげた」とある。
岩野泡鳴『耽溺』に「きイちゃん」が出てくるが、これは吉弥という女のことらしい。
島崎藤村『家』には、「菊(きい)ちゃん」とある。
泉鏡花『葛飾砂子』は、「菊枝」を「きいちゃん」と言っている。
ささいなことだが、ツイている時とツイていない時とがある。
昨日はツイていなかった。今日はツイていた。午前中にも「ラッキー」と思うことがあったが、ある叢書を検索したところ、抜けはあるものの(あるからこそ)格安品を見付けた。
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