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気が向いたら思いついたことを書いてみます
文化二年の市川白猿(五代目団十郎)戯述として、
我稚き時(十四歳)祖父栢莚翁の膝のもとにとし月遊へるに、或年の菊月重陽の日、祖父の我に向ひ給ひて、
 いふてみや菊栗きくくりみきくゝり
と重陽の絶句をかけられしまゝ予即席に
 申候合せて菊栗六きくくり
と返しに吟しけれは、祖父微笑して、汝滑稽の才に富り、末頼もしと祝ひ給ふ
という話が、大田南畝『一話一言』に紹介されている。
「菊栗きくくり三菊栗、合わせて菊栗六菊栗」は「ういろう売り」に出てくる文句だから、歌舞伎役者が知っているのは当然。
五代目団十郎は、寛保元年〈1741年〉 - 文化3年10月30日〈1806年12月9日〉。
五代目十四歳は宝暦四年。祖父栢莚(二代目団十郎)は六十七歳。
四代目は柏莚、五代目が白猿。
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幕下に貴ノ富士が出ていた。どう見ても貴公俊だ。調べると、今場所から貴公俊剛改め貴ノ富士三造となったという。
明治初期の銀座の寄席について、松林伯知「銀座の寄席」(『銀座』資生堂化粧品部。大正十年)に次のようにある。
此の銀座が煉瓦に成りましたのは、申上げるまでも御座いませんが明治五六年の頃でしたが、其の頃銀座四丁目の木村屋さんが開業せられ、其の二階を寄席にして講談を昼夜興行(うつ)ことに致されました。時に明治七年、文明の魁と自ら誇つた松林伯円が此の銀座の銀座亭の席開きでした。それと同じ頃に今の時事新報社の隣りへ鶴仙亭といふ艶物と義太夫をかける席が出来ました。ところへ新橋の際の今シンバシ・カフェーのあるところへ繁松亭といふ講談が一軒出来ますと、京橋の近くへも、松田といふ料理屋が煉瓦の表通りへ出るについて其の跡を出入の頭が引受けて金沢亭といふ寄席を始めました、これが今日もある金沢亭です。其後明治十四五年に至り繁松亭は潰れましたが、十二年の頃三十間堀三丁目角へ寿亭春日人三郎といふ信州飯田の人が黒田子爵の依頼であの辺の家主を兼ねて寄席を開きました。冬は格別でもありませんが夏は銀座煉瓦地唯一の涼しい処で、昼夜共大入を続けましたが、主人が没してから止めました。其の後の春日さんは電話業で頗る成功されて居ります。そして今日では銀座の寄席といへば金沢亭一軒ぎりになりました。
ここに出て来る寄席を列挙すると、
銀座亭・鶴仙亭・繁松亭・金沢亭・寿亭
の五軒である。
『京橋繁昌記』(大正元年)には、
金沢亭 銀座一丁目十三番地
銀座亭 銀座四丁目十一番地
新橋演芸館 竹川町
の三軒があるから、大正元年から十年までの間に、銀座亭・新橋演芸館が廃業したことがわかる。新橋演芸館を経営していた多賀六郎の子・多賀義勝の『大正の銀座赤坂』(青蛙房。昭和五十二年)によると、新橋演芸館の廃業は大正三年である。新橋演舞場が出来たのは大正十一年である。
永井荷風は『日和下駄』(大正四年)において、
私は外濠の土手に残った松の木をば雪の朝月の夕、折々の季節につれて現今の市中第一の風景として悦ぶにつけて、近頃四谷見附内に新築された大きな赤い耶蘇の学校の建築をば心の底から憎まねば成らぬ
と書いている。
上智大学ができたのが大正二年。赤煉瓦造四階建。今の四谷・上智大学や市ヶ谷・法政大学の建物を見たら、荷風は何と言うだろうか。
双葉文庫の新聞広告のキャッチが「粋な大人のイッキ読み」となっていて、おじさんのイラストが書かれている。その横には「色っぽいオトナ」とある。このおじさんが、どう見ても森繁久弥だ。森繁は平成21年に死んでいる。四十代で森繁の映画を見ている人がどれだけいるか。どんな層をターゲットにしているのか、よく分からない広告だ。
大阪地下鉄に東京ディズニーリゾートの求人広告が出ていた。「ディズニーキャスト募集」。住宅支援制度月3万円。東京のアパートは高いようだ。昨年、本郷三丁目駅前の不動産屋の前を通った時チラリと見て仰天した。
奥付に「発行者 野間佐和子」と書かれた本を何冊か買った覚えがある。「佐和子」というのはいい名前だと思う。目の前に佐和子さんが現れたら恋に落ちてしまいそうな感じだ。幸か不幸か、わが人生で佐和子さんにお目にかかることはなかった。社長夫人だったのが、連れ合いの死で社長になったのだろうと思っていたが、その通りだった。山本夏彦『私の岩波物語』に、次のようにあった。
野間清治は昭和十三年十月十六日午後一時機嫌よく入浴して、背を流させているうち胸苦しさを訴えたかと思うと一時半にはもう息たえていた。狭心症だった。それからひと月もたたない十一月七日こんどは恒が死ぬのである。二十九だった。
恒はこの年二月町尻量基陸軍軍務局長の長女登喜子と結婚している。子供はない。はじめ胃潰瘍だと思われたが直腸がんだった。申し遅れたが講談社も岩波も個人である。法人になったのは戦後である。戦前は個人の時代で法人の時代ではない。
二代目若社長が死んだから初代野間清治の未亡人左衛が三代目社長になった。結婚半年そこそこの登喜子は野間家にとどまって昭和十六年高木省一と結婚した。四代目社長になって戦後の講談社を今日あらしめたのはこの野間省一である。
ところが省一は昭和四十六年に脳血栓で倒れ、療養生活十三年何度か小康を得たが昭和五十九年七十三で死んだ。省一のひとり娘野間佐和子の婿惟道が省一のあとをついで社長になったかと思うとこれまた昭和六十二年急逝するのである。惟道は敗戦の時の陸相で自殺した阿南惟幾大将の五男で、昭和十二年生れである。
私が小学生時代御世話になった頃は野間省一時代だ。野間佐和子は平成二十三年死亡。現在は、野間省伸が七代目社長。
山本夏彦『何用あって月世界へ』に次の文章があった。
著作権は以前は三十余年で自然消滅したが、それを五十年に延長せよと、作詞作曲家たちは当局に迫って、のばしてしまった。歌は自らうたわれることを欲するのに、うたえば二重三重に金をとつて、なお不足で五十年にのばすとは図々しい。この協会はいまに我々が鼻歌うたっても、かけつけていくらかくれと手を出すようになるに違いない。「もらい乞食はよしとくれ」と、子供なら言うところだ。
それが、とうとう、七十年になってしまった。噫。
『太平策』(荻生徂徠)に、
荀子ニ学問ヲ飛耳長目ノ道ト云ヘル、耳ヲ飛シ目ヲ長クスルト読デ、生ナガラ数千里ノ外ヲモ聞キ、数千歳ノ昔ヲモ見ルハ、学文ノ徳也
とある。
四字熟語の勉強で「飛耳長目」という言葉を覚えたが、意味をしっかり考えなかった。インターネットを利用し、昔の書物を自由自在に閲覧できるようになって、この言葉が実感できるようになった。先の引用もネットからだ。
江戸時代には「へまむし入道」、昭和時代には「へのへのもへじ」を書いて遊んだ。今は、ゲームばかりで、文字絵遊びなどはないか。
昼頃、雪が降った。しばらく我慢していたが、目の前が白くなったので傘をさした。数百米歩くとパタリと止み、雲間から日が射してきた。
〽雪、パラパラと我が身に落ちて
僅かばかりの運の悪さを恨んだりして
という感じだった。
ドラッグストアでペン立て・定規立てによさそうなプラケースを買った。しかし、軽いので動きが激しい。重りを入れようと考えた。ネットで検索するが、いいものが見つからない。今日コーナンを物色していると、4センチ幅・高さでズシリと重いものがあったので、これに決めた。何に使うものかわからない。「ソケット」と書いてある。重さも表示されていない。ボルトをはめる道具なのか。
宮武外骨『奇抜と滑稽』第四号(昭和二年八月)に、
我国最古の人口調査として知られてゐる推古天皇の十八年、今から千六百十七年前には約四百万、百有余年を経た聖武天皇の天平八年には四百五十万それからずつと下つて享保三年には二千六百九十一万、明治五年に三千三百万人、日清戦争頃には四千二百万、日露戦争頃には四千八百万、大正九年には五千五百九十六万人、それが今日では六千万を突破してゐるとは威勢がいゝネ
とある。今日本の人口は一億を越えているが、半分に減ったとしても昭和初期並み、当時よりは機械もITもAIも遥かに進んでいるのだから、何の問題もなかろうと素人は考えるのだが、増えると減るとでは大違いらしい。特に若年層の減りの激しいのがイケナイらしい。
人口が減って空き家が増えて土地が余ったら、不動産価格は安くなるのではないかと素人は考えるが、そうならない。不動産屋はスプレー1本二万円で売りつける以上の悪どいことをやっているのではないか。
銀座にはほとんど行ったことがないが、昭和五十五年六月上旬、私は晴海通りの銀座四丁目付近をウロウロしていた。何の用事があったのか、全く覚えていない。折しも、参議院選挙に出馬していた中山千夏の選挙カー(かなり大きいものだった)で本人が演説していた。ところへ右翼の街宣車が大音をあげて妨害にかかった。千夏は「あなたの心に」を歌って退散した。ウィキを見ると、「小学5年生の時に東京へ転居し、中央区立泰明小学校に転入する」とある。この辺は彼女にとって懐かしい所なのだろう。
昨年十二月二十五日、梅田に右翼の街宣車3台が現れ、「スメラミコトいやさか」「天皇陛下万歳」と三度ずつ繰り返し大音で唱えるということをあちこちでやっていた。
今、新聞の号外は駅頭などでタダで配っている。しかし、以前は一枚刷を販売したものだ。その前はやはりタダであった。境目は日清戦争。日清戦争以後、号外を売るようになった。
岡本綺堂『思ひ出草』(昭和十三年)に、次のようにある。
新聞の号外発行はこれまでにも絶無ではなかつたが、それはよくよくの重大事件に限られてゐて、各社の配達人がその購読者の家々へ配達するに過ぎず、号外だけの一枚売りはしなかつたのだが、日清戦争勃発と共に新聞号外が飛ぶやうに売れはじめた。ラヂオの放送もなく、新聞の夕刊もない時代に、悠々閑々と明日の朝刊を待つてはゐられないので、各人が争つて号外を買ふことになる。今までは無代価と決まつてゐた号外が、こゝに一枚五厘とか一銭とかいふ価を生じて、各社直属の配達人ではなく、臨時に号外だけを売りあるく者が出来た。いはゆる号外屋である。各新聞社でも我社の広告になるといふやうな意味で、その号外屋にも号外を分けて遣る。最初は無代償であつたが、それでは無制限になるので、中途から百枚一銭ぐらゐを徴収することにした。而も百枚一銭で仕入れた号外が五十銭にも一円にも売れるのだから大儲け、今日の言葉で云へばボロイ商売だ。
さて、これがいつからまた無料配布になったのか、今はわからない。
松川家妻吉は、寄席でどのような芸をしたのか。自叙伝『堀江物語』では、長唄・小唄を歌ったことしか書いてない。しかし、石谷まさるは、『川柳きやり』第十二巻第六号で、次のように述べている。
東京の寄席に現はれた妻吉は一寸端唄都々逸などを唄つて立ち上り、手踊り……手のない不自由な身体で振り事を見せ、口に筆を啣へて踊りながら高座に立てかけた画箋紙に簡単に画を描くのであつた。此時妻吉と二人高座で三味線を弾いた妻奴は、オホヽの千山と云つた講談師濤声舎千山の娘であつた。妻吉は格別美人でもなく又芸も一向冴えたものではなかつたが、色物席の全盛時代ではあり、腕無し芸妓と云ふのが大評判で、到る処の大入を占めたのであつた。
今日のNHK-FM歌謡スクランブルは昭和二十年代の歌謡曲。
「東京の花売娘」昭和21年
「ミネソタの卵売り」昭和26年
「街のサンドイッチマン」昭和28年
これらの商売は、今は見られない。
街角で、マンガ喫茶の大きな看板を持って立っている人は見るが、あれは何という名称なのだろうか。
「なっとういち」のタレ小袋が新アイディア。なんと、「押すだけ」。つまんで切り裂く必要はない。粒も超小粒ですばらしい。
https://rocketnews24.com/2018/11/26/1143487/
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181130-00010001-shokuhin-bus_all
https://news.merumo.ne.jp/article/genre/8102294
http://7ch02.blog.fc2.com/blog-entry-816.html
常々思っていたが、(納豆タレでなく)小袋を破る時、ギザギザの所を引っ張るのが普通だと思っていたが、そうでないものもある。親切に矢印で「ここから切って」と表示しているのもある。統一できないものか。
三遊亭円生の落語「左甚五郎」に「ぬうぼう」という名前が出て来る。甚五郎が、自分の名前を忘れたと言って名乗らないので、おかみさんが付けた名前。「ぬーっとしてぼうっとしてるから」という。これはフランス語にかこつけた擬人名だ。
昭和五年『現代語新辞典』(自治館)に、
【ヌーボー(式)】取りとめのない、真相の知れない人間をかく呼ぶ。
とあるから、円生の造語ではなく、昭和初期の流行語なのだろう。
と思いきや、平山蘆江『日本の芸談』(昭和十七年)に、
川上(音二郎)と肩をならべて人気を持つてゐる高田実といふ役者は何もしない事においてえらい役者だつた。高田の事を当時の人はヌーボー役者と云つた、丁度日露戦争直前頃で、セセツシヨン式といふ美術装飾の流行る前、アール、ヌーボアといふ装飾が盛んに流行つてゐる頃だつた。アールヌーボアの流行り言葉をその儘とつてヌーボー役者といふ仇名も出来たのだが。
とあった。「ぬうぼう」とは、明治時代に出来た言葉なのだ。三遊亭円生は昭和五十四年没。明治・大正・昭和と使われたこの言葉も平成以降は消滅か。今はワインに取って代わられた。
40年ほど前、某先生が
「鴫立つ沢の秋の夕暮」の「沢」って、どんな所だ。
と質問した。私は即座に
「沼」
と答えた。すると、その先生は、違う、と言う。説明の詳細は忘れたが、結論として、
「山間の渓流」
だという。その場では、先生の説明に納得して、「ああ、そうなのか」と思っていた。
しかし、渓流では、西行の歌のイメージがうまく作れない。「沢田」「深沢」などという苗字も、渓流では説明がつかない。
今日、『素書』「安礼章第六」を見ると「山峭者崩。沢満者溢」とあって、荻生徂徠『素書国字解』は、「ヤマケハシケレバクヅル。サワミツレバアフル」と読んで、後半について、「沢ハ、ソウジテ、タマリテ、ナガレヌ、水ナリ、タメヰ、ヰセキナド、一ハイニミツレバ、隄(ツヽミ)ヲフキヽリテ、水アフルヽナリ」と注している。
『日本国語大辞典』には、
①浅く水がたまり、草の生えている湿地。水草の生えている地。
②山間の谷。またそこを流れる水。渓流。谷川。
とある。
某先生は②の意味しか知らなかったのか。①の意味なら、私の答えた「沼」のほうが正解に近いのではないか。
では「沢」と「沼」はどう違うのか。湖の小規模なのが沼で、沼の小規模なものが沢なのだろうか。このへんは、よくわからない。
西行の歌に戻る。ネットで調べると、大磯に「鴫立沢」「鴫立庵」があり、写真が出ている。これを見ると、鴫立沢は小さな川だ。某先生はここを訪れて、沼ではないと確信したのか。
しかし、大磯の「鴫立沢」「鴫立庵」は、江戸時代初期、誰かが「ここだ!」と決めたもので、西行の与り知らぬ所だ。小川ではあるものの、海がすぐ目の前で、山間ではなく、谷川・渓流といったものでは全くない。私は、この歌の「沢」は、渓流ではなく、水たまりと考えたい。
明治時代の文献を見ていたら、「便殿」とあった。これはトイレではない。
『新漢語林』によると、「便」には次の意味がある。
①たより。おとずれ。音信。「幸便」
②都合がよい。また、利益をはかる。「便利」
③都合。つて。ついで。
④くつろぐ。安らか。また、普段。「便殿」「便衣」
⑤すばやい。また身軽な。手軽な。
⑥慣れている。習熟している。
⑦小便。また、大便。
①口先たくみに言う。口がうまい。
②へつらう。
「ラジオ深夜便」は①の意味だが、この「便」を⑦の意味に考える学生がいた。今の学生は「便箋」など使わないか。
①はメール、②はコンビニ、③はチャンス、④の「便殿」はコンフォートルーム、「便衣」はカジュアル(ウェア)、とことごとくカタカナ語になっている。トイレを「便所」と言う人は少ない。⑦の「小便」をピー、「大便」をストゥールなどと言うようになる時代が来るのだろうか。
今日の朝日新聞大阪版十面「経済気象台」の記事を見て、初めて一万円札を見た時のことを思い出した。小学3年生の時だ。母親が「新しく出た一万円札を見せてやる」と言って財布からおもむろに取り出した。聖徳太子だから有り難みがあるので、福沢諭吉ではピンとこない。五千円札は手許に来るとすぐくずしてしまう。千円札は顔など見ない。夏目漱石でも野口英世でも、どちらでもよい。
三遊亭円生が、弟子修業時代、師匠に「十円札」を見せてもらった時のことを話していた。師匠でもめったに手にするようなものではなかったという。明治末か大正初の十円札というのは、江戸時代の一両小判のようなものなのだろう。円生が見たのは大黒様か和気清麻呂か。私は子供の頃、五円札を手にした記憶はあるが、一円札・十円札の記憶は定かでない。小学校に入る頃は、一円・五円・十円ともコインだった。小学校高学年になると、五十円玉百円玉をもらった。
今、十万円札ができたら一両小判のようなものなのだろうが、一万円札もやめるべきで千円札までにすべきだ、という主張をする人がいるらしい。
ドラマに「しずり」という名前の女性が出てきた。木の枝などに積もった雪が落ちることだという。それなら「しずる」でもいいはずだ。
『鶯亭金升日記』昭和十五年一月十四日に次の記述がある。
安部内閣は人望薄く「アブナイ閣」と思いしが、遂に十四日総辞職を決行
「安部」は金升の誤記で、実は「阿部」信行内閣。わずか140日の短命内閣で教科書にも出てこないだろう。アベにもいろいろある。安倍内閣を「アブナイ閣」と言った人があるのを知らない。
『鶯亭金升日記』昭和二年七月十七日に、
今日は本年最高の温度にて、十一時近くに早九十度近くなりて、正午の暑さ釜中に座するここちし、初めて社にて肌を脱ぐ
とある。華氏90度は摂氏32度。金升が今の38度(華氏100度)を体験したら、何と表現するだろうか。
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