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気が向いたら思いついたことを書いてみます
国技館で、力士の名を大きく書いたタオルやプラカードを掲げる人たちがいる。タオルは購入したものだろうが、自作のプラカードには誤字が見られる。
「貴景勝」を「高景勝」としたり、「嘉風」を「喜風」としたものがあった。観客のレベルが知られる。
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今年十月から消費税が10%になるという。
『鶯亭金升日記』昭和二十三年九月一日に「百円の買い物をすれば一円、八十円には八十銭と云ふ税の印紙ができて、今日より商人も面倒なるべし」とある。1%だ。これは、印紙税か物品税か消費税か。ネットを見ても、『近代日本総合年表』を見ても、この件に関する記述が見られない。どういうことだろうか。
今日見た文献に「第四種郵便」とあった。「第三種郵便」というのはよく見るが、第四とは? 三・四があるなら、一・二があるはずだ。ハテ、「第一種郵便物」とは? と疑問に思い、調べると、次のようなことであった。
第一種郵便物(手紙)(定形郵便物・定形外郵便物・郵便書簡)
第二種郵便物(はがき)
第三種郵便物(承認を受けた雑誌などの定期刊行物。開封)
第四種郵便物(通信教育用郵便物・点字郵便物・特定録音物等郵便物・植物種子等郵便物・学術刊行郵便物)
https://www.post.japanpost.jp/service/standard/index.html
封書が原則で、葉書はその廉価版らしい。私が小学校低学年の頃は定形封書が十円だった。母の姉は封筒の右上を切って開封とし、八円切手で送ってくるのが常であった。カモシカの図で、子供にはこわいような気もしたが、今見るとかわいらしい感じもする。
https://marumatestore.com/?pid=340621
某氏の論文注釈に、
男名の芸者は、幕府の公許を受けていた吉原以外の色町・宿場・歓楽地等の岡場所で、役人の目をごまかすために芸者を男名前にして雇人にしたと言われている。(凡平『江戸の花街「遊廓」がわかる』、二〇〇五・九、技術評論社)また、岡場所の代表とされる深川で、豪華に着飾る花魁に対抗し、男装であつた羽織を用い、売春をせず、意地と張りな態度で接客する深川芸者に由来して、男名前を付けることもあったと指摘されている。(中野栄三『廓の生活』、一九六八・六、雄山閣出版)
とあった。
語源同様、事物起源も難しいものだが、凡平・中野栄三の説のみ掲げて、宮武外骨の説を抜かしているのは残念。
宮武外骨『スコブル』第一号(大正五年十月)掲載「男名の芸妓(其由来)」に、
古い時代から何処にでもあるが誰も其由来を知らずに居る事
女性の芸妓が男性の名を附るこれはそもそも何が故であるか
男の名といへば、先づ何太郎、何次郎、何三郎、何吉、何松、何助である、女の名といへば、お松、お鶴、お花、お吉、お蝶、静子、英子等の類である、然るに芸妓の名に
 玉吉 太郎 琴之助 粂八 春次 吉弥 米丸 鶴次 千代吉 松助 音松
など云ふのが多い、これは何故であるか
徳川時代の初期から明治維新後までの間、各地にカゲマと云ふのがあつた、蔭間は男色を売るのが本業で、若衆、色子などとも呼ばれた、其蔭間茶屋といふのが、江戸は芳町、京は宮川町、大阪は阪町などに多くあつた、蔭間は女装して居たが、名はやツぱり男名で、梅太郎、菊之助、染吉、藤松など云つて、蔭間茶屋の表行燈にも其名を記したのである
此蔭間がスコブル流行した宝暦頃に、江戸深川の芸者屋で娘を蔭間風に仕立、男髷に結つて羽織を着せ、名をも蔭間らしく千代吉、鶴次、甚八など呼ばせて、蔭間の向ふを張つたのである、それがモトで今に至るまで芸妓に男名を附けるのであるが、其由来を知つて居る当人、客人は百の中に一人もあるまい
とある。
『公私月報』第六十八号(昭和十一年)では、
江戸時代の若衆「かげま」は女装の男子で淫を売つたのであるが、その向ふを張つた深川の羽織芸妓は若衆づくりで、名をも若衆らしく駒吉、玉太郎、米八など男名を唱へたのがモトで、一般の芸妓が男名を附けることに成つたのである
と述べている。
「カフエライオン鼻つまみ番附」(『銀座』第三号所収)に、
前頭  岡 康雄(女給をちつとも張らないから)
前頭  久米正雄(女房を連れて女給を張りに来るから)
前頭  菊地寛(たまに來て女給を張るから)
とあるので、「張る」の意味がわからなくなった。
『日本国語大辞典』「張る」には
二⑦複数の男性が一人の女性をものにしようと争う。また、学生用語で女学生を口説く。〔最新百科社会語辞典1932〕
とあるが、これは、『最新百科社会語辞典』の他、
『隠語辞典』(栗田書店。昭和八年)に
はる(張る 俗)多くの男が一人の女を獲得しようとして競争することをいふ。
とあるのによったもので、「張り合う」と勘違いしているのではないか。「争う」「競争する」必要はない。
『現代語新辞典これさへあれば』(文化出版社。昭和二年)に
【張】(ハリ)(一)女を手に入れんと附けねらふこと
とあり、
尾佐竹猛『下等百科辞典』(批評社。平成十一年)に
はる(張る)【普通語】
(二)粋な言葉で、思ふ女を手に入れんと尽力するので、横町の娘を張るなど云ふので、これから転じて経師屋など云ふ隠語も出来たのである。
とあるのが、順当なところだろう。
さて、「張る」が「女を手に入れようとする」ことであるとして、その手段・方法は如何なるものか、ということが問題になる。
幸い、安藤更生『銀座細見』(昭和六年刊。今、中公文庫による)に「女給の張り方」が書かれている。
この章は、
いまのカフエの客はみんな女給目当てである。従つて、女給を永遠の女性にしてこれに真面目な恋をしようとするものもまた与太な気持で女給を弄ぼうとする者も、いずれにせよそこには人様々なテクニックが使われるわけだ。
と前置きをして、
チップの適量
時期
伴奏者
送り
呼出し
の諸項目で詳説する。最後は「金」の話だ。
これで一応納得はしたものの、先の「鼻つまみ番附」の、
久米正雄(女房を連れて女給を張りに来るから)
というのがわからない。女房を連れてカフェに来て女給を口説くというのはどういうことか。
ウィキによると、久米は大正十二年、待合「ゆたか」の元芸妓・奥野艶子と結婚している。水商売あがりの女房だから、女には寛容で、妻公認の浮気なのだろうか。そういえば、最近も東京都議会議員が、妻のセフレを容認するという話があった。世は様々。人も様々。
「カフエライオン鼻つまみ番附」は、下記に翻刻がある。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~hokkyoku/wagaya/huruhon/huruhon26/huruhon26.htm
大田南畝『一話一言』に、
浅草海苔に歌そふて得させたる返り事に
 むさしなる浅草海苔は名のみにてお心さしの深川のもの  右信海
右古今夷曲集に見ゆ、此頃もはや浅草よりは出ず、深川より出しと見えたり、今は大森辺より出るとは、弓矢八幡信海も知らさるべし
とある。
私が子供の頃、町内に海苔屋があった。大きく「浅草海苔」と書いてあったのを覚えている。『古今夷曲集』から三百年以上も海苔屋は噓をつき続けたのだ。
文化二年の市川白猿(五代目団十郎)戯述として、
我稚き時(十四歳)祖父栢莚翁の膝のもとにとし月遊へるに、或年の菊月重陽の日、祖父の我に向ひ給ひて、
 いふてみや菊栗きくくりみきくゝり
と重陽の絶句をかけられしまゝ予即席に
 申候合せて菊栗六きくくり
と返しに吟しけれは、祖父微笑して、汝滑稽の才に富り、末頼もしと祝ひ給ふ
という話が、大田南畝『一話一言』に紹介されている。
「菊栗きくくり三菊栗、合わせて菊栗六菊栗」は「ういろう売り」に出てくる文句だから、歌舞伎役者が知っているのは当然。
五代目団十郎は、寛保元年〈1741年〉 - 文化3年10月30日〈1806年12月9日〉。
五代目十四歳は宝暦四年。祖父栢莚(二代目団十郎)は六十七歳。
四代目は柏莚、五代目が白猿。
幕下に貴ノ富士が出ていた。どう見ても貴公俊だ。調べると、今場所から貴公俊剛改め貴ノ富士三造となったという。
明治初期の銀座の寄席について、松林伯知「銀座の寄席」(『銀座』資生堂化粧品部。大正十年)に次のようにある。
此の銀座が煉瓦に成りましたのは、申上げるまでも御座いませんが明治五六年の頃でしたが、其の頃銀座四丁目の木村屋さんが開業せられ、其の二階を寄席にして講談を昼夜興行(うつ)ことに致されました。時に明治七年、文明の魁と自ら誇つた松林伯円が此の銀座の銀座亭の席開きでした。それと同じ頃に今の時事新報社の隣りへ鶴仙亭といふ艶物と義太夫をかける席が出来ました。ところへ新橋の際の今シンバシ・カフェーのあるところへ繁松亭といふ講談が一軒出来ますと、京橋の近くへも、松田といふ料理屋が煉瓦の表通りへ出るについて其の跡を出入の頭が引受けて金沢亭といふ寄席を始めました、これが今日もある金沢亭です。其後明治十四五年に至り繁松亭は潰れましたが、十二年の頃三十間堀三丁目角へ寿亭春日人三郎といふ信州飯田の人が黒田子爵の依頼であの辺の家主を兼ねて寄席を開きました。冬は格別でもありませんが夏は銀座煉瓦地唯一の涼しい処で、昼夜共大入を続けましたが、主人が没してから止めました。其の後の春日さんは電話業で頗る成功されて居ります。そして今日では銀座の寄席といへば金沢亭一軒ぎりになりました。
ここに出て来る寄席を列挙すると、
銀座亭・鶴仙亭・繁松亭・金沢亭・寿亭
の五軒である。
『京橋繁昌記』(大正元年)には、
金沢亭 銀座一丁目十三番地
銀座亭 銀座四丁目十一番地
新橋演芸館 竹川町
の三軒があるから、大正元年から十年までの間に、銀座亭・新橋演芸館が廃業したことがわかる。新橋演芸館を経営していた多賀六郎の子・多賀義勝の『大正の銀座赤坂』(青蛙房。昭和五十二年)によると、新橋演芸館の廃業は大正三年である。新橋演舞場が出来たのは大正十一年である。
永井荷風は『日和下駄』(大正四年)において、
私は外濠の土手に残った松の木をば雪の朝月の夕、折々の季節につれて現今の市中第一の風景として悦ぶにつけて、近頃四谷見附内に新築された大きな赤い耶蘇の学校の建築をば心の底から憎まねば成らぬ
と書いている。
上智大学ができたのが大正二年。赤煉瓦造四階建。今の四谷・上智大学や市ヶ谷・法政大学の建物を見たら、荷風は何と言うだろうか。
双葉文庫の新聞広告のキャッチが「粋な大人のイッキ読み」となっていて、おじさんのイラストが書かれている。その横には「色っぽいオトナ」とある。このおじさんが、どう見ても森繁久弥だ。森繁は平成21年に死んでいる。四十代で森繁の映画を見ている人がどれだけいるか。どんな層をターゲットにしているのか、よく分からない広告だ。
大阪地下鉄に東京ディズニーリゾートの求人広告が出ていた。「ディズニーキャスト募集」。住宅支援制度月3万円。東京のアパートは高いようだ。昨年、本郷三丁目駅前の不動産屋の前を通った時チラリと見て仰天した。
奥付に「発行者 野間佐和子」と書かれた本を何冊か買った覚えがある。「佐和子」というのはいい名前だと思う。目の前に佐和子さんが現れたら恋に落ちてしまいそうな感じだ。幸か不幸か、わが人生で佐和子さんにお目にかかることはなかった。社長夫人だったのが、連れ合いの死で社長になったのだろうと思っていたが、その通りだった。山本夏彦『私の岩波物語』に、次のようにあった。
野間清治は昭和十三年十月十六日午後一時機嫌よく入浴して、背を流させているうち胸苦しさを訴えたかと思うと一時半にはもう息たえていた。狭心症だった。それからひと月もたたない十一月七日こんどは恒が死ぬのである。二十九だった。
恒はこの年二月町尻量基陸軍軍務局長の長女登喜子と結婚している。子供はない。はじめ胃潰瘍だと思われたが直腸がんだった。申し遅れたが講談社も岩波も個人である。法人になったのは戦後である。戦前は個人の時代で法人の時代ではない。
二代目若社長が死んだから初代野間清治の未亡人左衛が三代目社長になった。結婚半年そこそこの登喜子は野間家にとどまって昭和十六年高木省一と結婚した。四代目社長になって戦後の講談社を今日あらしめたのはこの野間省一である。
ところが省一は昭和四十六年に脳血栓で倒れ、療養生活十三年何度か小康を得たが昭和五十九年七十三で死んだ。省一のひとり娘野間佐和子の婿惟道が省一のあとをついで社長になったかと思うとこれまた昭和六十二年急逝するのである。惟道は敗戦の時の陸相で自殺した阿南惟幾大将の五男で、昭和十二年生れである。
私が小学生時代御世話になった頃は野間省一時代だ。野間佐和子は平成二十三年死亡。現在は、野間省伸が七代目社長。
山本夏彦『何用あって月世界へ』に次の文章があった。
著作権は以前は三十余年で自然消滅したが、それを五十年に延長せよと、作詞作曲家たちは当局に迫って、のばしてしまった。歌は自らうたわれることを欲するのに、うたえば二重三重に金をとつて、なお不足で五十年にのばすとは図々しい。この協会はいまに我々が鼻歌うたっても、かけつけていくらかくれと手を出すようになるに違いない。「もらい乞食はよしとくれ」と、子供なら言うところだ。
それが、とうとう、七十年になってしまった。噫。
『太平策』(荻生徂徠)に、
荀子ニ学問ヲ飛耳長目ノ道ト云ヘル、耳ヲ飛シ目ヲ長クスルト読デ、生ナガラ数千里ノ外ヲモ聞キ、数千歳ノ昔ヲモ見ルハ、学文ノ徳也
とある。
四字熟語の勉強で「飛耳長目」という言葉を覚えたが、意味をしっかり考えなかった。インターネットを利用し、昔の書物を自由自在に閲覧できるようになって、この言葉が実感できるようになった。先の引用もネットからだ。
江戸時代には「へまむし入道」、昭和時代には「へのへのもへじ」を書いて遊んだ。今は、ゲームばかりで、文字絵遊びなどはないか。
昼頃、雪が降った。しばらく我慢していたが、目の前が白くなったので傘をさした。数百米歩くとパタリと止み、雲間から日が射してきた。
〽雪、パラパラと我が身に落ちて
僅かばかりの運の悪さを恨んだりして
という感じだった。
ドラッグストアでペン立て・定規立てによさそうなプラケースを買った。しかし、軽いので動きが激しい。重りを入れようと考えた。ネットで検索するが、いいものが見つからない。今日コーナンを物色していると、4センチ幅・高さでズシリと重いものがあったので、これに決めた。何に使うものかわからない。「ソケット」と書いてある。重さも表示されていない。ボルトをはめる道具なのか。
宮武外骨『奇抜と滑稽』第四号(昭和二年八月)に、
我国最古の人口調査として知られてゐる推古天皇の十八年、今から千六百十七年前には約四百万、百有余年を経た聖武天皇の天平八年には四百五十万それからずつと下つて享保三年には二千六百九十一万、明治五年に三千三百万人、日清戦争頃には四千二百万、日露戦争頃には四千八百万、大正九年には五千五百九十六万人、それが今日では六千万を突破してゐるとは威勢がいゝネ
とある。今日本の人口は一億を越えているが、半分に減ったとしても昭和初期並み、当時よりは機械もITもAIも遥かに進んでいるのだから、何の問題もなかろうと素人は考えるのだが、増えると減るとでは大違いらしい。特に若年層の減りの激しいのがイケナイらしい。
人口が減って空き家が増えて土地が余ったら、不動産価格は安くなるのではないかと素人は考えるが、そうならない。不動産屋はスプレー1本二万円で売りつける以上の悪どいことをやっているのではないか。
銀座にはほとんど行ったことがないが、昭和五十五年六月上旬、私は晴海通りの銀座四丁目付近をウロウロしていた。何の用事があったのか、全く覚えていない。折しも、参議院選挙に出馬していた中山千夏の選挙カー(かなり大きいものだった)で本人が演説していた。ところへ右翼の街宣車が大音をあげて妨害にかかった。千夏は「あなたの心に」を歌って退散した。ウィキを見ると、「小学5年生の時に東京へ転居し、中央区立泰明小学校に転入する」とある。この辺は彼女にとって懐かしい所なのだろう。
昨年十二月二十五日、梅田に右翼の街宣車3台が現れ、「スメラミコトいやさか」「天皇陛下万歳」と三度ずつ繰り返し大音で唱えるということをあちこちでやっていた。
今、新聞の号外は駅頭などでタダで配っている。しかし、以前は一枚刷を販売したものだ。その前はやはりタダであった。境目は日清戦争。日清戦争以後、号外を売るようになった。
岡本綺堂『思ひ出草』(昭和十三年)に、次のようにある。
新聞の号外発行はこれまでにも絶無ではなかつたが、それはよくよくの重大事件に限られてゐて、各社の配達人がその購読者の家々へ配達するに過ぎず、号外だけの一枚売りはしなかつたのだが、日清戦争勃発と共に新聞号外が飛ぶやうに売れはじめた。ラヂオの放送もなく、新聞の夕刊もない時代に、悠々閑々と明日の朝刊を待つてはゐられないので、各人が争つて号外を買ふことになる。今までは無代価と決まつてゐた号外が、こゝに一枚五厘とか一銭とかいふ価を生じて、各社直属の配達人ではなく、臨時に号外だけを売りあるく者が出来た。いはゆる号外屋である。各新聞社でも我社の広告になるといふやうな意味で、その号外屋にも号外を分けて遣る。最初は無代償であつたが、それでは無制限になるので、中途から百枚一銭ぐらゐを徴収することにした。而も百枚一銭で仕入れた号外が五十銭にも一円にも売れるのだから大儲け、今日の言葉で云へばボロイ商売だ。
さて、これがいつからまた無料配布になったのか、今はわからない。
松川家妻吉は、寄席でどのような芸をしたのか。自叙伝『堀江物語』では、長唄・小唄を歌ったことしか書いてない。しかし、石谷まさるは、『川柳きやり』第十二巻第六号で、次のように述べている。
東京の寄席に現はれた妻吉は一寸端唄都々逸などを唄つて立ち上り、手踊り……手のない不自由な身体で振り事を見せ、口に筆を啣へて踊りながら高座に立てかけた画箋紙に簡単に画を描くのであつた。此時妻吉と二人高座で三味線を弾いた妻奴は、オホヽの千山と云つた講談師濤声舎千山の娘であつた。妻吉は格別美人でもなく又芸も一向冴えたものではなかつたが、色物席の全盛時代ではあり、腕無し芸妓と云ふのが大評判で、到る処の大入を占めたのであつた。
今日のNHK-FM歌謡スクランブルは昭和二十年代の歌謡曲。
「東京の花売娘」昭和21年
「ミネソタの卵売り」昭和26年
「街のサンドイッチマン」昭和28年
これらの商売は、今は見られない。
街角で、マンガ喫茶の大きな看板を持って立っている人は見るが、あれは何という名称なのだろうか。
「なっとういち」のタレ小袋が新アイディア。なんと、「押すだけ」。つまんで切り裂く必要はない。粒も超小粒ですばらしい。
https://rocketnews24.com/2018/11/26/1143487/
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181130-00010001-shokuhin-bus_all
https://news.merumo.ne.jp/article/genre/8102294
http://7ch02.blog.fc2.com/blog-entry-816.html
常々思っていたが、(納豆タレでなく)小袋を破る時、ギザギザの所を引っ張るのが普通だと思っていたが、そうでないものもある。親切に矢印で「ここから切って」と表示しているのもある。統一できないものか。
三遊亭円生の落語「左甚五郎」に「ぬうぼう」という名前が出て来る。甚五郎が、自分の名前を忘れたと言って名乗らないので、おかみさんが付けた名前。「ぬーっとしてぼうっとしてるから」という。これはフランス語にかこつけた擬人名だ。
昭和五年『現代語新辞典』(自治館)に、
【ヌーボー(式)】取りとめのない、真相の知れない人間をかく呼ぶ。
とあるから、円生の造語ではなく、昭和初期の流行語なのだろう。
と思いきや、平山蘆江『日本の芸談』(昭和十七年)に、
川上(音二郎)と肩をならべて人気を持つてゐる高田実といふ役者は何もしない事においてえらい役者だつた。高田の事を当時の人はヌーボー役者と云つた、丁度日露戦争直前頃で、セセツシヨン式といふ美術装飾の流行る前、アール、ヌーボアといふ装飾が盛んに流行つてゐる頃だつた。アールヌーボアの流行り言葉をその儘とつてヌーボー役者といふ仇名も出来たのだが。
とあった。「ぬうぼう」とは、明治時代に出来た言葉なのだ。三遊亭円生は昭和五十四年没。明治・大正・昭和と使われたこの言葉も平成以降は消滅か。今はワインに取って代わられた。
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