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気が向いたら思いついたことを書いてみます
梅沢富美男は若い頃、女形の研究をするのに、風呂屋の前の電信柱に隠れて、湯上がりの女性の腰つきを観察した。浴衣の女性などは下着をつけておらず、観察するのに都合がよかったという。警官に職務質問され、交番に引っ張られたそうだ。その道を究めるためには、人並みでない着眼点、執念、努力が必要だ。
子どもの頃、近くに公衆浴場が2軒あった。友達は「セント」と言っていたが、わが家では「風呂屋」と言っていた。落語を聞いていると、江戸では「湯屋」と言ったという。私の耳には「銭湯」という言葉は、やや安っぽく聞こえた。もちろん、どこにも「銭湯」などとは書いてない。一軒は「文化浴場」、もう一軒は「仁の湯」。友達は「にのゆ」と言っていたが、わが家では「じんのゆ」と言っていた。
小学校4年生まで、母親と一緒に文化浴場に行っていた。同級生の女の子を見かけて、気恥ずかしい思いをしたことを覚えている。その後、1人で男湯に入るようになった。それからしばらくして、文化浴場ではなく、仁の湯へ行くようになった。文化浴場は出入り口付近でオシロイの匂いがぷんぷんしていたのを覚えている。歓楽街も近く、芸者さんとかホステスさんの多い町だったのだろう。思春期の男の子を近づけないほうがいいという親の判断だったのかもしれない。
仁の湯では、体重計に載っても百キロ目盛りの四半分、25キロで針がいつも止まっていたのを記憶している。今なら一年生でも25キロはあるだろう。小学校高学年でこの体重だから、半世紀前の栄養状態がいかに悪かったかがわかる。
2階へ上がると当時は珍しいテレビがあって大相撲をやっていた。
45年前、大塚で暮らした時も近くに風呂屋があった筈だが、覚えていない。三十数年前、蔵前でも近くに風呂屋があった。ここは掃除も行き届かず、かなり汚い感じのさびれた風呂屋だったのを覚えている。客はほとんどいなかった。松戸でも近くに風呂屋があった。30年前、関西に来たが、町で風呂屋を見ることはなかった。西宮・東灘では今でも街中に煙突が立っているのを見ることができる。
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