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気が向いたら思いついたことを書いてみます
「息子」というのは親が自分の子を指して使う言葉だが、他人が使ってもいい場合がある。それは「馬鹿息子」というように軽蔑する時だ。この人には「阿呆息子」としか言いようがない。3月20日、大阪市北区中之島のリーガロイヤルホテルでの記者会見で、桂米團治は、神戸新聞田中記者の質問(受け継いでいきたい米朝の言葉)に対して次のように語った。
米朝は相反する二つの言葉を言うたことを今思い出しました。一つは先代米團治師匠が、入門する(させる)時には必ず言う言葉やねん、と、米團治師匠の言葉やということで、「末路哀れは覚悟の前やで、芸人というものは末路哀れを覚悟せなあかん、お米一つ作るわけやなし物一つ作るわけやない、そやけどこうしておいしい酒飲ましてもろうて稼がしてもろうてるんや、そんなええ仕事やってるんやから末路哀れでもしゃあない」ということを言うて、飛び込んで、その言葉と逆に米朝が常々言うてたのは、ある時僕は「近世の身分制度に士農工商河原者というのがありますが、士農工商河原者の中でやっぱり芸人噺家は河原者ですね、歌舞伎役者なんて河原者の端くれに入ってるんで、河原者ですね」って聞いたら「違う」「ほなどこなんですか」「どこにも属せへんのや」って言わはりました。「それが噺家やねんで」。ですから、最初の言葉の謙虚さとあとの言葉のプライドっていうのは、両面持ってるって思いました。これは私のこれからの生き方、弟子への教え方にもつなげたいと思います。
現米團治は米朝の言葉を誤解しているのではないか。「どこにも属せへん」というのは「末路哀れ」と同じ卑下の精神だろう。卑下というのはやや適切ではないかもしれない。卑屈になってはいけないが謙虚でなければならない、ということだ。この気持ちが米團治には理解できないようだ。3月29日神奈川新聞「照明灯」には次のようにある。
20年以上前、桂米朝師匠に一度だけお目にかかったことがある。楽屋で湯飲みを差し出した一学生に「あんさんのお茶には品がありますな」。褒め言葉なのか、柔らかな小言だったのか▼「笑いは庶民の尊い文化だが、落語はしゃれが命のばかげた芸で、落語家は世の中のお余り」。人気に浮つかない自戒、謙虚さを後進にも説き、かわいげ、品、上等を求めたと聞く。世間知らずで不作法な学生には、他者への敬意、自らの役割への責任感を諭していた気がする
桂米朝さん死去会見3 ざこば「師匠はみな見抜いてはりましたね」 THE PAGE大阪
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