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気が向いたら思いついたことを書いてみます
姉はん団扇と逢状敷て蚊帳の裾からスリ入れる
という都々逸があった。「逢状」とは何ぞや。そのものずばり、吉井勇に「逢状」というエッセイがある。

 祇園で今では見られなくなつたものに、「雑魚寝」のほかにもうひとつ「逢状」というものがある。
 これは客が来た時に茶屋から名差しの芸妓や舞妓に出すものであつて、大体葉書大位の紙に、「××さまゆゑ直ぐさまお越しねがひ上げ候」という文句と茶屋の名とが印刷してあり、××というところに客の名前を書き、それに相手の名前を書いて、それぞれ芸妓や舞妓の屋形に届ける。そうするとそこの苧姆(おちよぼ)がそれをそれぞれの出先へ届けるのだが、客の方では出した数の何分の一位しか来ないのが分つているので、十枚も二十枚も書くものがある。それだから一流の芸妓や舞妓になると、襟元のところにはみ出す位多くの逢状を持つていて、それが一種の見得になるものだつた。


『隠語大辞典』には次のようにある。

大阪地方にて、貸席から芸妓へ宛てて、馴染客の来たことを通知する一定の用紙をいふ。即ち客の名と芸妓の名を「逢状」に書き込んで、おちょぼに持たせて芸妓扱席へやる。すると芸妓はその逢状を帯の間に挟んでお座敷に出て来るといふ仕組みである。〔花柳語〕

「ギオン福住」サイトには、次の文章がある。

南地ラプソディー 逢状
 「渡されてうれしと君の笑ふときわれ逢状とならましものを」 吉井勇
 京の嶋原、祇園、大阪の新町そして南地に逢状という風習がありました。
 これは客がお茶屋を通し芸、舞妓を呼ぶ場合に出す恋文の様なもので、花街により多少の違いはありますが、断片的な記述を私なりに纏めると、まずお茶屋に入った客が名前を指定して芸、舞妓を呼ぶ場合、天に紅をつけた八つ切りか四つ切の半紙に ○○様ゆえ 直ぐさま お越しを願上候××様 とか ○○様ゆえ 千代とにても お越しの程 待入り参かせ候 かしく××様とか、 ○○に客の名、××に芸妓の名を書き、大阪なら“おちよやん”京都なら“おちょぼ”と呼ばれた少女に渡し検番に走らせ、検番では芸妓の居所を把握している男衆がその芸妓が置屋にいるなら置屋、お座敷中ならそのお茶屋に行き、座敷までお越しを願うもので、逢状の主が嫌なら芸妓側から断わってもよかったそうです。
 これは芸妓にとっても一つの見栄となり、襟元から逢状をはみだす程差し入れている芸妓は一目で売れっ子と分かります。
 祇園には天紅のほか、つなぎ団子や柳のように、お茶屋によって趣向をこらした逢状があったそうです。
 南地の場合は扱店制度で検番と置屋の機能が纏まっているので、多少の時間は短縮できるでしょうが、それにしても、能率の点から見れば、前時代的で非効率な風習と言わざるをえません。
 この逢状がいつ何処から始まったのか分かりませんが、おそらく武家文化が色濃い江戸ではなく、もちろん町人文化が花開いた大阪でもなく、公家文化が育んだ京の嶋原が発祥と見るのが自然だと思われます。
 ただし、食満南北が昭和の始めに、逢状は南地では定番の風習であるが、最近祇園でも始めたようだ・・・と書いており、吉井勇が昭和三十年ごろ、差紙はもう祇園では行われていないと書いています。両者とも大変な事情通なので、本当の所は、逢状の発祥地を含めて今一度検証の必要があろうかと思います。
大阪の花街は扱店制度が特徴でしたが、これはでは扱い店の数だけ検番が存在する様なもので機能の面では誠に無駄が多い為、徹底的な合理主義者である阪口祐三郎が南地五花街の取締りに就任すると、昭和八年、大和屋、伊丹幸、富田屋など二十一あった扱店を廃止し、扱席を共義会と名づけ、資本金五十万円の株式会社にし、宗右衛門町に本検、中筋に南検の二検番制度にして合理化しました。
 これ以降、個々の扱店に属していた芸妓は、南検か本検の何れかの所属になり、大和屋の誰、伊丹幸の誰と云っていたものが本検の誰、南検の誰となり、扱店の箱屋(男衆)も着物から洋服になり株式会社の従業員となりました。
 又情味たっぷりで遊び心ゆたかな逢状も、これを運んでいたおちよやんもこれを機に無くなったと思われます。
 さらに戦後、渡辺寛の著作によれば南地は大和屋系と反大和屋に分裂し、昭和三十年代始めに反大和屋系は南陸会、豊楽会、松葉会、曾我廼家が別に検番をつくり、大和屋系も大和屋、南妓会、大和会となり、さらに大和屋から独立した約百名の芸妓が東栄会を形成して御霊神社付近に大阪の東新地をつくり、花外(楼)、灘万、つるや、吉兆などの料亭にはいりました。
 加藤藤吉によると戦後、大阪芸妓の六割は南地花街に馳せ参じ、戦前に近い数までの復興をみましたが、打算的な個人経営の芸妓斡旋状の乱立が妓品低下につながり、徐々にその勢いを無くして行きました。
 「或ときは古逢状を取りだしむかしの恋を泣くと云ふかな」 吉井勇


何でも簡単にわかる、便利な世の中になったものだ。
最初の都々逸に戻る。「蚊帳の裾からスリ入れる」の風情は私にもわかる。子供の頃は蚊帳をつって寝たものだ。

この都々逸は明治十九年六月十五日、京都改進堂から出版された『粋の種本』に載っている。編者は下京の人である。したがって、食満南北の記述は誤りである。





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