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気が向いたら思いついたことを書いてみます
ある本に、「……と聞き、勿皇馳せて之を●●に訪ふ」とある。「勿皇」の意味は見当がつくが、辞書には載っていない。諸橋『大漢和辞典』にもない。
「勿」には「いそぐさま。あわただしいさま」という意味がある。「皇」にはそれらしき意味が見当たらないが、「遑」には「いそがしい。あわただしい」という意味がある。
『大漢和』の「勿勿」には、「あわただしいさま。急遽。倉皇。匆匆」とあり、同じく「倉皇」には、「あわてる。にはか。倉黄。倉惶。倉卒」とあるのだから、「勿皇」も同義と考えてよいのではないか。
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明治時代にはいろいろな風が吹いた。
【品川風】
明治二十四年六月、品川弥二郎が内務大臣となるや、風俗上の取締りが厳重になったことを指す。
【警八風】
『日本国語大辞典』には、
「警八」は警視庁令第八号の意で、明治二八年(一八九五)布告の料理屋、待合、芸者などの取締規則をさし、同三〇年頃風俗が乱れ、その取締りが厳しくなったことを風にたとえていった俗語。
とある。
正岡容『明治東京風俗語事典』には、
臨検を警八風といった。
とある。
古来、風雅を「雪月花」と言ってきた。しかし、中国の文献に「風花雪月」とあるのを見た。中国語での意味は知らないが、「雪月花」よりは「風花雪月」のほうが、より風雅であるように感じる。
明治二十六年創刊の雑誌『別世界』は、三年目の明治二十八年に到るや、
総て別世界現今の事事物々を有りの儘に網羅し百年の後に今日の風俗を知る参考書となさんとの目的なれば
と強気になっている。百二十年以上経過した現在、『別世界』の評価はどうなっているだろうか。
少なくとも、明治二十六年から三十五年まで十年間は発行されたようだが、残念ながら、その全てを所蔵している図書館はない。ウィキペディアにも記載はない。この雑誌を中心に研究した論文・書籍も見当たらない。私のような物好きが一部の記事を参考にしているに過ぎない。
「機密文書を出張細断します」と横腹に書いたトラックが走っていた。まともな会社ならシュレッダーを導入しているだろう。「出張細断」の需要はあるのか、どうしてこんな仕事を始めたのか。不可解。
有名人の末期を列記したものとして、山田風太郎『人間臨終図巻』などがあるが、有名人の死因を列記したものはないかと見ると、田中祐吉『古今東西偉人名流の疾病及死因』があった。
平清盛 腸チフス(通説)
上杉謙信 脳出血
徳川家康 胃腸炎+老衰
蒲生氏郷 慢性潰瘍性腸疾患
松尾芭蕉 赤痢
平賀源内 破傷風
与謝蕪村 慢性腸カタル+胃障害
曲亭馬琴 心臓麻痺
福沢諭吉 脳出血
田口卯吉 慢性腎臓炎
尾崎紅葉 胃癌
中江兆民 喉頭癌
高山樗牛・新島襄・樋口一葉・斎藤緑雨・国木田独歩・正岡子規 結核
これ以外に外国人多数が紹介されている。大正四年の本だから、今日の医師が見たら違う見解になるかもしれない。
紅葉は胃痛に悩み、モルヒネを打ったという。痛み・苦しみなく、ポックリと逝ければいいが、どうなることやら。
囃子詞というのだろうか、歌の中に出てくる意味不明な言葉が、調子がいいので耳を離れないということがある。
ギッチョンチョン
トコトンヤレトンヤレナ
オヤマカチャンリン
サイコドンドン
オッペケペツポペッポッポ
ラメチャンタラギッチョンチョンデパイノパイノパイパリコトパナナデフライフライフライ
ただし、「きんらい節」の「キビスガンガン……」などは長すぎて、感心して聞くだけになってしまう。
昭和には、森山加代子の『じんじろげ』があった。意味不明。インド民謡と関係があるなどと考証する人もいるようだが、ネットでの考証を見ても、全体としてどういう意味があるのか、全くわからない。音を楽しめばよいのではないか。
添田啞蟬坊『流行歌明治大正史』の最初は「ヨサコイ節」。
「ヨサコイ節」の流行は、旧幕時代に於ても屢々繰返されて、其の度毎に何か事変が起つたといふが、慶応三年に又此のヨサコイ節が流行した。幕臣も謡へば、勤王党もうたつた。これをうたひながら遂に維新の革命は行はれたのであつた。
とある。
近年「YOSAKOIソーラン祭り」という訳のわからない踊りがあるが、全国的流行には到っていないようだ。これが本当に盛り上がれば「事変」「革命」が起きるだろうか。
ある本に
前川と云ふ鰻屋は、古くからあつたが、今日のやうな木前ではなかつた
とある。この「木前」がわからない。
あれこれ考え、「気前」のことではないかと思った。「気前がよい」の「気前」は、『日本国語大辞典』には、
さっぱりした性質。特に金銭などを惜しまないで使う性質。また、そのようなさま。
とある。「気前」がよいというのは、貧乏人にはできない。財産があるというのが前提だ。先の例は、
今ほど裕福ではなかった
今ほど景気がよくなかった
今ほど立派な店ではなかった
ということだろう。
相撲改革案。
①土俵を変える。怪我する力士が続出するのは土俵のせいだ。江戸時代は土しかなかったろうが、今はプラスチックでも繊維でも、上等なマットができる。プロレスなどよりずっと上等なマットを作り、そこで勝負すべきである。
②立ち会いを変える。息が合うの合わないのとやっているが、姑息な力士が得をするだけだ。百メートルスタートのようにするか、チャイム三、二、一で立つようにするか、音に合わせさせるべきである。フライングは負けとすればよい。手を突く所にタッチパネルを組み込み、両手を触れずに立った者は負けとする。
③決まり手を限定する。張り手、決め技、とったりなどの危険な技を禁止する。今はチョンマゲをつかまない限りオーケーだが、今後は相手の髪の毛に手を触れたら負けとすべきである。手に油がつくから証拠検証はできる。のど輪など、首から上は攻撃してはいけないとすべきである。
④観客席を変える。客席は全て椅子、又は階段式にして、腰掛け式にする。
「また来てね」などと言われたことはないが、同義の表現は時々聞く。某牛丼屋では「またよろしくお願いします」と言っていたが、慣れてきて面倒になったのか、最近は「お願いします」しか言わない。某ドラッグストアでは、以前は「ありがとうございました」しか言わなかったが、先日は客が減ってきたせいか、あるいは暇だったのか、「またおいでください」と言っていた。店内放送で「またのお越しをお待ちしております」と言っていたのは某スーパーか。
今日の松鳳山・錦木の決まり手が「小手投げ」と発表された。しかし、松鳳山は錦木の左腕を両腕でかかえて投げたのだから、「とったり」ではないか。
大正七年、浅草の老妓が、
先日も公園では可成り流行(はやる)妓(こ)なんですけれど広小路のちん屋でお客と牛鍋で御飯を食(たべ)てゐたんですつて、まア呆れるぢやありませんか
と言っている。
「ちん屋」がわからない。調べると、ウィキペディアにあった。
ちんやは、東京都台東区浅草一丁目にあるすき焼き屋の店舗。
1880年(明治13年)に、現在地で料理屋を開いたのが始まり。それ以前は、江戸時代、諸大名や豪商相手に狆(ちん)などの愛玩動物を納め、獣医を行っていたことから「狆屋(ちんや)」と呼ばれていたことから屋号とした。その後、1903年(明治36年)に、「すき焼き」屋となった。1975年(昭和50年)に現在の建物に建て替えられた。
140年近く場所を変えないで営業している料理屋というのも珍しいのではないか。雷門のすぐ西にある。恥ずかしながら、知らなかった。「ちん屋横丁」という通りがあったらしい。
『日本国語大辞典』には、
なるようになるさ、の意。昭和三二年封切りのアメリカ映画「知りすぎていた男」の中で、ドリス=デイが歌った主題歌のタイトル。
とある。
しかし、日置昌一『ことばの事典』には、
ケ・サラ・サラの語源
イタリア語の Che sara,sara であって、これは西暦一九四〇年ごろ、外交官のダニエル・ヴァレという人が書いた回想録から出たもので、その意味は「なるようにしかならぬ、運命にはさからえぬ」というようなことに日本ではつかわれているが、これが有名になったのは、昭和二十九年十一月廿八日に来朝したアメリカの女優エヴァ・ガードナー出演の映画「裸足の伯爵夫人」から、たちまち学生のあいだで流行しはじめた新らしい言葉のひとつである。〈下略〉
とある。
『裸足の伯爵夫人』についてウィキペディアを見ると、
1954年に製作・公開
1954年11月11日(日本公開)
とある。1954年は昭和二十九年だから、昭和三十二年の『知りすぎていた男』よりも『裸足の伯爵夫人』のほうが古い。
念のため、DVDを見てみると、
che sara sara
と複数の墓石に彫ってある。
イタリアの古いことわざで、ファブリーニ伯爵家の家訓でもあるとのこと。当然、マリアの墓石にも刻まれている。
『日本国語大辞典』が語源をスペイン語としているのと異なる。
『裸足の伯爵夫人』のケ・セラ・セラは陰鬱だが、『知りすぎていた男』の主題歌はどこか陽気・楽天的な雰囲気がある。
前者が「なるようにしかならない」なら、後者は「なるようになるさ!」という感じ。
誰しも後者のほうがいい気分になる。しかし、それとは別に、『日本国語大辞典』が初出を掲げていなのは問題である。
月曜日は、中国語で星期一、以下、二、三と進んで、土曜日は星期六、日曜日は星期日だ。
中国語では月曜から始まって日曜で一週が終わること、これで明らか。中国のカレンダーは見たことがないが、月曜から始まっているのだろう。日本のカレンダー業者はどうして日曜始まりの暦ばかり作っているのか。恥を知れ、中国を見習え。
『文芸倶楽部』第十六巻第七号で、
三平二満
に「おたふく」とルビがあった。初めて見る言葉だが想像はつく。
『大辞泉』には、
額・鼻・あごの三つが平らで、両のほおがふくらんでいる顔。器量のよくない女の形容としていう語。おたふく。おかめ。
「―の口紅、しなだれかかる会釈顔」〈浄・反魂香〉
とある。
『文芸倶楽部』第十六巻第四号には「懲罸委員室」の欄ができ、前号で天を取った「吉原は月夜なりけり春の雪」は「島原は月夜となりぬ春の雪」の剽窃であるとの告発を受け、贈賞を取りやめたとしている。告発者には「一円書籍切符」が贈呈されている。告発者の賞品は当初一円図書券だったが、大正二年には「二円」となっている。
総合雑誌・文芸雑誌・研究雑誌に掲載された文章については、このような告発制度を設け、告発者に賞金を贈るようにすればよいのではないか。
明治時代の雑誌の広告を見ていると、「看よ!」「読め!」「備へよ!」「知れ!」「刮目して俟て!」といった命令調の言葉が目立つ。今でいう「上から目線」の文句だ。こういう調子は昭和のいつ頃まで続いたのだろうか。
ドラマを見ていたら、シュレッダーにかけた文書を復元する技術があるそうだ。
縦一直線にしか切れないのだから、当然といえば当然だ。縦横斜めに裁断する機械はないのだろうか。
自宅にシュレッダーはなく、鋏で切っている。縦横斜めに切るので、どんな技術を以てしても復元はできないだろう。
昔の人は死にあたって詩歌を作った。辞世の作を集めたものはないかと見ると、
『近世慷慨辞世集』(明治十九年)
『古今辞世集』(大正四年)
などがあった。俳句に限定して「辞世の句」を集めた本も多い。近年、遺言状を書き残す人は増えたようだが、辞世の詩歌を残す有名人の話は聞かない。
ある本に「茶昆」とあった。チャコンなどという日本語はない。
「荼毘」のまちがいであることはすぐわかる。
日置昌一のことを書いた本がないかと調べると、紀田順一郎『知の職人たち』(新潮社)があった。
吉田東伍・石井研堂・斎藤秀三郎・日置昌一・巌谷小波・新村出
の六人を扱ってる。
日置は子供達に自分の履歴の詳細を語ることもなく、自伝らしきものも残していない。座談会に発言が若干残る程度だ。
十五の時以来、上野の図書館に十七年間、中で二日ばかり休みましたが、毎日朝九時から夜九時まで行って本を読んだ。
という。
六千日以上国会図書館に通い続けるのは尋常でないが、その間の生活費はどうしていたのかと疑問に思う。
名文にもいろいろあるが、やはり口語文よりは文語文のほうがよい。特に死者を悼む文章は感情が籠っていてすばらしい。
『文芸倶楽部』第二巻第十五編(明治二十九年十二月十日)の「樋口一葉女史を悼む」は、稀代の名文と言ってよいだろう。
◎樋口一葉女史を悼む  一たび浮世の『濁り江』に、其才筆を染め、人生無限の恨を寄せてより、爾来明治才媛の名日々に高く、『十三夜』に、不遇の恋を写し、『たけくらべ』に、少女の果敢なき恋を描き、其想は、高く人意の表に出で、其文は、優に明治詩界の重きを為し、巾幗者流の文豪として許されたる一葉女史樋口夏子の君は、尚二十五歳の齢を以て逝きぬ、哀しい哉。
抑々女史は、其年十七にして父を喪ひ、爾後は、老母と幼妹とを、わが身一人にて保育し、具さに人生幾許の辛酸を嘗め、なかなか読書問学の暇とてはなく、小学すらも卒業せず、今より十年前花圃女史等と共に、僅かに中島歌子女史に就て歌道の一端を学びしことのあるのみなるに、天才はよく女史をして金玉の作を出せしめぬ。
女史人と語ることを好む、今年の夏の暮れ八月頃より図らずも肺炎を患へて、爾来病勢愈々篤く、或る日親しき人の訪ひし時、枯容悄然静かに語りて曰く、『妾は不幸にして処女時代を有たず、常に家計のことに齷齪して、妾が半生は殆ど涙のみ、唯慈悲深き母をして、聊かも心を安んぜしむるものなく反つて痛恨を増しむるを悲む』と。斯く北堂に孝心深かりし人とて、其病に悩めるうちも、絶えず面に微笑を帯て、苦悶の状を示さず、十一月廿三日午前十一時永く此世を辞する四五時前も、微声を洩して笑ひつゝ逝けりと、蓋し北堂の心を安めむとてのことなるが、誰か其心情の優にやさしきを感ぜざらんや。されば女史が、其心華を咲しめし著作を見れば、総て社会逆遇の人に向つて同情を表するが為めのものにして、読者一点の霊心、知らず知らず何物かに感動するある所以は、唯之れを以てのみ。
嗚呼女史逝きぬ、十一月廿五日築地本願寺に葬る、文壇知名の文士多く会葬し、本館々主亦之れに会せり。嗚呼玉砕く、本郷丸山福山町女史の空屋、復琤々の声を聞く能はず、哀しい哉、倶楽部記者こゝに一句を賦して、永く無限の恨を寄す。
   木がらしや、暮れ行く空に月の影。
さて、この筆者は誰か。奥付には、「編輯人宮澤春文」とある。しかし、『文芸倶楽部明治篇総目次・執筆者索引』の解題は、「名義上の編輯人が実質的な編集長とは限らない」として、「博文館編輯局のトップであった大橋又太郎(乙羽)が「実際の編輯」担当でもあった」とする。
ウィキペディアの「大橋乙羽」の項には、
樋口一葉とは1895年(明治28年)に半井桃水から紹介されて知り合い、乙羽の依頼で一葉は「ゆく雲」「にごりえ」など代表作を発表している。また乙羽の妻・ときも一葉から和歌の指導を受けるなど夫婦で親交があった。
とある。
よって、この追悼文は大橋乙羽の手になるものであろう。
明治五年、徴兵令が発布された。一般庶民はできれば兵隊などにはなりたくない。明治十三年『小学作文的例』には、徴兵免役願の書式が示されている。
   徴兵免役願
私何男某儀本年廿歳ニ相成服役可仕筈之処家事差支有之候ニ付代人料弐百七拾円上納仕候間常備後備両軍共御宥恕被下度奉願候也
  年月日   住所族籍氏名印
  陸軍徴兵署御中
金があれば徴兵を逃れることができた。この他、他家へ養子に行くという手もあった。『古書肆「したよし」の記』に「兵役回避のための養子縁組」の章がある。
ある本に「喝道」に「ドゲザ」とルビが振ってあった。
『日本国語大辞典』の「喝道」は、
① 大声でしかりつけること。どなりつけること。叱咜(しった)すること。
② 貴人の通行の際、先頭にたって声をあげて、通行人を制すること。さきばらい。
となっている。
『世界大百科事典』の土下座は、
屋外での跪礼すなわち土下座は《弘安礼節》にもみえ,江戸時代には大名の通行に際して庶民は土下座をさせられた。一方,武士もまた身分によって,宮方や上級の公卿には土下座する定めであった。
となっている。
ウィキペディアには、
近代まで庶民が貴人に面会するときも土下座をするのが通常であった。近世の大名行列に対し、行きあわせた庶民は土下座をしなければならないという認識もあるが、実際に土下座の義務があったのは将軍、御三家、およびその地の領主に対する場合のみであった。他方で義務がなくとも自発的に土下座をする庶民もいた。
とある。
「喝道」に「ドゲザ」とルビがあるということは、先払いの声に応じて通行人が土下座をしたということなのだろう。
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